2023年1月1日

新しい年の始まりです。

昨夜は紅白を最後まで見て過ごしました。
加山雄三さんの熱唱が個人的には最も心に残りました。

そこからのゆく年くる年、ジルベスタ、生さだ、
そして午前1時から台北101の花火中継を観ました。
日本と台湾の1時間の時差。
あいにくの天気でしたが迫力は伝わってきました。

就寝は1時半頃。
今朝、初日の出を拝んで早速PCに向かっています。
「『今年』もありがとうございました」という文言がブログのトップに来ているのが
なんだか更新できていなくて気持ち悪い感じがして、
年が明けたらやっぱり新しいフレーズを上に置いておきたいなと。
(たったの数時間なのですけどね)

まずはご挨拶のみ。

これから初詣に行くなどお正月らしい過ごし方をしたいと思います。

なお、今年の目標は

「やっぱりこれがいい!」と思えることをする。
「やっぱりここがいい!」と思える場所にいる。

2023年もよろしくお願いします!

# by mikikasai819 | 2023-01-01 08:23 | にっき(日々の出来事) | Comments(4)

2022年最終日

2022年もあと数時間で終わります。
やっぱり今年も1年の振り返りは紅白を観ながらになりました。
余裕を持って書きたいのに、何も成長がない・・・
でもこの記事の前にも祖母との思い出をまとめたので
まあまあ頑張ったと思うことにします!

もうビールもスパークリングワインも飲んじゃって、
かなり今年は酔った状態でPCに向かっております。
今、TVからはきつねダンスが流れています。

今年のトピックとして大きかったことは

①ホームページをリニューアル!
2011年に立ち上げてから11年ぶりのリニューアル。
みやびアートデザインさんに大変お世話になりました。
写真も11年ぶりに撮り直しました。
最初は笑いが引きつっていてカメラマンさんにたくさんダメ出しされましたが
おかげでとてもいい写真ができました。
子どもの頃の写真も入れるなど、より身近に感じてもらえるように工夫しました。
ホームページというのはやはり大きな営業ツールなので
これからもたくさんの人と出会えるといいなと思います。

②河西美紀ReSETの存在
4月にミュージックバードで全国ネットで始まった番組。
冠番組という恐れ多いスタートでした。
9月までの半年間で終わってしまったのですが
ここで学んだこと、感じたことは実に大きく、
自分が何をしたいのか、どうありたいのか、
大袈裟ではなくたくさんの気づきがありました。

③とうきょう総文アナウンス審査員
高校生の文化部のインターハイ「総合文化祭」。
毎年違う都道府県で開催。
今年は第46回にして東京の開催でした。
ここで放送部門のアナウンス審査員を務めたのです。
このブログでもその都度書いてきましたが、
自分が高校時代に出場した大会に審査員として関われるって
こんなに幸せなことってあるのでしょうか。今も喜びを噛み締めています。

④ほんとわラジオ始動!
1月から毎週木曜日11時世田谷文学館の番組がスタート。
対談形式なので毎月ゲストの方のことを予習します。
自分が今まで知らなかった世界をたくさん知ることができました。
今では世田谷文学館が大好きです!
来年も続くことになりました。

⑤Bee Up!Setagayaディレクター変更!
これはリスナーさんには分からないことかもしれませんが、
4月から新たなメンバーが加わりました。
パーソナリティーの私は毎週、
ディレクターは2人態勢で隔週。
いつも本当に楽しくお届けしています。
生放送ってやっぱり最高です。
今年は様々な取材にも出ていき、より中身が濃くなりました。

⑥エフエム群馬に電話で出演!
2002年(それこそ12月31日)付けで退社したエフエム群馬。
20年経った今年、同期の岡部哲彦アナウンサーからの依頼で
エフエム群馬社屋の移転に伴う特別番組に電話で出演しました。
なんだか不思議な感覚でした。
20年前のあの頃、パワハラで心身を病んでしまった26歳の私、
絶望の中にいて、仕事を一旦離れてしまったこともあったけれど、
こうして今もアナウンサーという仕事をフリーで続けていられるのは
あの頃の自分に伝えてあげたいな。
私は群馬が大好き。第2のふるさと。また関われたら嬉しいです。

⑦祖母との別れ
10月26日に祖母が100歳で他界しました。
一つ前の記事にたくさん書いたのでもうここでは控えますが、
確実に今年の大きなトピックです。
祖母が晩年好きだった「のりたまのふりかけ」を食べながら想いを馳せます。

⑧出張復活
コロナ禍で仕事は激減、本当に凹みましたが
今年は少しずつ司会の依頼が増えてきました。
新幹線や飛行機を使ってお仕事に行ったのも嬉しかったです。
長崎・大阪・北海道・・・ありがとうございます。

⑨群馬・川場村の取材
今年の4月からラジオで川場村の情報を伝えています。
現地取材をしてきてほしいということで、6月に行ってきました。
勿論群馬ですからね、身近に感じる川場村。
暗闇で見たホタルの光に感動を覚えました。

⑩旅あれこれ
コロナ禍は続いており海外には行けませんでしたが
国内はあれこれ出かけました。
広島、那覇、札幌、福岡、長崎・・・
札幌は札幌ドーム、福岡はPayPayドームでそれぞれ野球観戦。
また、10月にJR東日本パスを使って仙台、青森、新潟、長野と行きました。
仙台では牡蠣を食べ、長野では戸隠で蕎麦を食べました。

それから旅という概念ではなく大きかったのは主人の実家への帰省です。
コロナ禍以降、東京から来ないでほしいとずっと言われていたけれど
今年9月に3年ぶりに行くことができました。
久しぶりに直接会えて本当に良かったです。

というわけで、これ以外にもプロ野球観戦では
オリックスが日本一を決めた試合を観て大興奮し、
サッカーW杯はドイツとスペインを撃破した試合にテレビの前で叫び、
やっぱりスポーツはいいですね。
自分が体を動かすジャンルではスポーツジムに今年も行って
筋トレと格闘技プログラムでいい汗を流しました。

音楽では永井真理子さんの横浜スタジアムライブから30周年!
同じ演目でのライブに参加できたこと、感慨深かったです。

2022年、前半と後半で違う年かというくらい
波が大きかったなぁと思います。
ホントにこの年齢からたくさん勉強になりました。

来年はブログの引っ越しを含めて(前向きに!)、
もっともっと発信の仕方を模索していきたいなと思います。

健康にも留意しながら。
私自身の健康も、家族の健康も。

2023年もよろしくお願いします。

# by mikikasai819 | 2022-12-31 20:30 | にっき(日々の出来事) | Comments(2)

祖母との別れを記す【下】

大晦日に1年を振り返りたい気持ちはたくさんありますが、
10月26日に亡くなった祖母との別れを記しています。
もちろん、今年の大きな出来事ではあるのですが、
ギリギリにならないと書けない自分を呪います。苦笑

・下の3つに分けて書いています。
よろしければ先に2つ前のものからお読みください。

火葬の際の感情なので、リアルな描写は不快・NGという方はスルーしてください。


★★★

火葬場が混んでいるからという理由で葬儀の日程が決まる・・・
東京都内ではそれが日常のようです。
実際に近いところは空いていないから、少し遠い火葬場まで向かうことになりました。

13年前の祖父の時は、ほぼ初めての体験で、もう自分自身どうにかなりそうだったのですが、
今回はやけに落ち着いていました。

いざ到着して驚いたことは、あまりにも多くの方がいらっしゃったことです。
今日ここで何人の方が荼毘に付されるのだろう。
複数並んでいる火葬炉には次から次へと多くの遺族が訪れていました。

棺の蓋はもう開けないと言われていたのに、ここで少し時間がありました。
おばあちゃん、ありがとう。
私の披露宴の時に来ていた着物を身にまとい、きれいなお化粧をした祖母にお別れを告げました。

待っている間は子供たちはお菓子を食べ、大人たちは談笑。
祖母がここにいたらきっと楽しんでいるだろうな。

しばらくして呼ばれた収骨の際、ハプニングが発生。

「字が違う!」

祖母は「かずえ」という名前なのですが、その「え」の漢字が違うと母が気づいたのです。

骨壺には「」ではなく「」と書いてありました。
スタッフの方が血相を変えて「すぐ確認します」と。

結果は・・・戸籍に「」と書いてあります!とのこと。

えええ?
祖母が亡くなってから初めて知った事実。
本人も知らなかったかもしれない・・・

とにかく間違っていなかったので予定通り収骨。

ここのスタッフもプロでした。
喉仏の説明などもとても分かりやすかったし、
「下顎は誰が見ても分かるくらい綺麗ですね」って言われたのが
孫としてはなんだか嬉しかったです。
ついさっきまで目にしていた祖母の顔が浮かびました。

そして「惠」の文字もさることながら
その横に「百歳」って書いてあるのが感慨深かったです。

百、です。

九十九じゃなくて百。

漢数字3文字ではなく1文字。

おばあちゃん、本当に100年間生きたんだね。
最後の数年は思い通りの日々ではなかったけれど、
それも含めておばあちゃんの人生だったね。

最後は身内で会食。
アクリル板があったので、話そうと思っても
「え?」「何?」「聴こえない」となって会話が難しく、
それ以前に高齢者も多いからと思って会話を控えてしまい
せっかく集まれているのに残念でした。
でも、こういう状況で一同に会せたことがそもそも幸せなのであって
この日をきっと忘れないと思いました。

12月13日、ちょうど四十九日当日。
この際の法事はさらに人数少なく、
父・母・私・弟・妹・伯父1・伯父2の7人のみで執り行いました。

お墓に入った祖母は、ちゃんと旅ができたかな。

★★★

実は、祖母が生前遺してくれた私への手紙がありました。
葬儀のあとに母から渡されました。

「元気なうちに一筆ありがとうと言いたくてペンをとりました。
いつも優しくしてくれて嬉しいです。
手の手術をした時、左手で昼食の時美紀が来てくれて食べさせてくれました。
嬉しかったです。
私も90を超えた高齢者です。
いつも先のないことが解っていますから、残された日々を大切に生きるつもりです。
中略
振り返って私の一生は幸せでした。
ありがとう ありがとう
あの世とやらで幸せを見守っていますよ」

90歳を超えた時の文章のようなのでその後の10年はどう思っていたか分かりませんが、
少なくともこの手紙を書いているときは幸せな一生と思っていたと分かり私も嬉しいです。

うん、おばあちゃん、見守っていてください。

あなたに似て多趣味で、文章を書くのも好きな孫より。



※このあと2022年を振り返ります!

# by mikikasai819 | 2022-12-31 17:10 | にっき(日々の出来事) | Comments(0)

祖母との別れを記す【中】

10月26日に100歳で亡くなった祖母のことを記しています。
四十九日が終わったタイミングでUp予定が、
なかなか進まず、年の瀬になってしまいました。
文章能力に長けていた祖母に怒られそうです。
一つ前の文章はこちらからお読みください。

あくまで自分の中の記録です。
葬儀の詳細も書いているので、ちょっと・・・という方はスルーしてください。

★★★

10月26日午後1時45分、母からLINEが入りました。

「今、亡くなったって連絡がありました」

私はその時、なかのZEROホールの舞台袖でした。
午後2時から始まるイベントの司会のために控えていました。

来るときが来た。祖母はこの世を去った。

一瞬時が止まったような感覚になりましたが、すぐに現実が戻りました。

今は仕事中。

母には「お母さん、気をしっかりね。私も本番頑張る」と急いで返信をして、
アナウンス業務に入りました。

やはり不思議と「おばあちゃーん、ううっ」という号泣みたいな感覚はなく、
それが「私は冷血なのか?」という自問自答になり、
悲しくないわけはなく、でも、やはり、それだけの時間を離れて生活していて、
この3年間一緒に会話も叶わなくて、会っても無表情で、コロナ禍でそもそも会えなくなって、
でも、本当に今度こそお別れ。

通夜と告別式をそれぞれ行うのではなく「一日葬」という形をとることになりました。
これも、もうそろそろそういう日が来ると分かっていたからこそ、
両親も準備を進めることができていました。
家族葬は初めての体験です。

父、母、私、夫、弟、義妹、姪1、甥1、姪2、甥2、妹、義弟、姪3、伯父1、伯母1、伯父2、伯母2、従伯母。

参列は総勢18人。

祖母の遺影は私のスマホの中に納まっていた写真になりました。
まだ祖母が家にいて、会話もできていたころ、
自分が作った俳句を短冊にしたためてもらった記念写真。
穏やかな笑顔で、これが一番いいと推して、最終的に両親に決めてもらいました。

今回のお坊さんは、抜群に良かったです。
お経をあげる際にちゃんと説明をしてくれました。
そして何より嬉しかったのは、祖母に語り掛けてくれていたことです。

「嘉寿惠さん、100年の修行、お疲れ様でした」って。

そうか、修行か、そうだよね、娑婆(しゃば)の辛さを100年も。

お焼香の時間は18人しかいないとあっという間です。
小学生の甥や姪は初めてのことで、見様見真似でちゃんとできていたのがグッときました。

そして、今回最も心に残ったことは、初七日の法要です。
初七日を告別式の中で一緒にする、いわゆる繰り上げ法要というのはこれまでにもあり、
正直おまけみたいな気持ちで思ってしまっていましたが、
この日、印象が大きく変わりました。

仏教では、故人が極楽浄土に行けるかどうかの審判をされる期間が49日間となっていて
最初の審判が行われる日が初七日なのですね。
7×7=49という計算です。
お坊さんは「これから嘉寿惠さんは旅路の中で7回の面談を行うわけです」と。

そうか、ここから旅が始まるのか。
この説明が、自分の心を穏やかにしました。

おばあちゃん!やったね!
実は祖母は旅が大好き。
ちゃーんとあの世に行けるように。
良い旅をしてもらえるように。

そんな気持ちで初七日法要で焼香しました。

だから、この日2回焼香したのですが、2回目のほうは、私は笑みを浮かべていました。
「おばあちゃん、気を付けていってらっしゃい」と心の中で伝えました。

普段は無宗教の私ですが、せっかくこういう場にいるのであるから
ちゃんと意味を分かって取り組むことは大事だなと思いました。
説明してくださったお坊さんに感謝します。

そうして、棺の蓋を閉めるとき、お花をどんどん入れることになります。
葬儀社の方は「最後のお別れを」と5分程時間をとってくれました。
やはり身内だけの式だからできる事なのかなと思いました。

実は事前に「おばあちゃんから預かっていたものがある」と母に言われ
渡されていたものがありました。
私が就職で東京の実家から群馬に一人暮らしをする際に、
祖母に宛てた手紙と、祖父が亡くなったときに励ましの気持ちで書いた手紙でした。
それを大事に保存してくれていたようでした。
「棺に一緒に入れてもいいんだよ」と母には言われましたが、
私は到底入れる気にならず、自分が書いた文章ではありますが、暫くは保管することにしました。
代わりに想いを綴ったものを用意したのですが、こともあろうか家に忘れたため手ぶら・・・。
まあ、それも私らしいと、祖母は笑ってくれるでしょう。

こうして、儀式は終わり、火葬場に向かうことになりました。

To Be Continued・・・

# by mikikasai819 | 2022-12-31 17:06 | にっき(日々の出来事) | Comments(0)

祖母との別れを記す【上】

大晦日、いかがお過ごしでしょうか。
今年何かやり残したことはないかと言えば、
祖母との別れを記すことです。

この世を去ったのが10月26日。納骨が終わったのが12月13日。

祖父が亡くなったのが2009年。もう13年も前。
あの時は身内を亡くすのが初めてで、しかも高齢とはいえ突然だったので、
もうひたすら泣いてキツかったのですが、
文章をしたためることで気持ちの整理ができました。
(その時の記事はこちらから)

今回の祖母との別れはまた違った感情で向き合うことになりました。
やはり記しておいた方がいいなと思い、ここに残しておくことにします。
(暗い気持ちになりそうという方はスルーしてくださいね。)


★★★

祖母とは私が生まれたときからずっと一緒に住んでいました。
美紀という名は、最初は美樹という漢字が候補に挙がっていたのに、
「美しい樹木なんて名前負けする」と祖母が言って「紀」になったそうです。
(そもそも「美」を使う時点でキツイと思ったのは私だけ?笑)

幼い頃からとても厳しく育てられた記憶があります。
今思えば、祖母のしつけのおかげで今があると言っても過言ではないかもしれません。

また、とても多趣味で、習い事を大袈裟ではなく週7日通っているような人でした。
俳句、書道、墨絵、フラダンス、大正琴、体操、社交ダンス、カラオケ・・・
友達もとても多かったですし、旅行も大好きでした。
洋裁が得意で、小学校低学年くらいまでは祖母が作った洋服しか着ていませんでした。
これがまた、とても上手で、いつもワクワクしていたものです。

さらに日記を毎日欠かさずつけていたり、
新聞のクロスワードを毎週解いていたことも思い出します。
(その記事はこちら
国語力に長けた祖母でした。

そんな祖母は90代半ばまでは元気でした。
(もちろん年齢相応で弱りながらも)
このブログを検索すると、祖母のこともたくさん書いていたのが記録されています。

しかし、だんだんと衰えて、母はずっと介護をして、
長くなればなるほど大変な日々となりました。
認知症で私のことも分からなくなってしまいました。

施設に入ってからはなかなか会えず、
コロナ禍になったらさらに会えず、
祖母がいない生活が当たり前になってしまったのは否めません。

でも、解釈によっては、そうやって少しずつ少しずつ、
お別れをしていったのかもしれないと思います。

今年の3月に100歳を迎えた祖母ですが、
今年10月に入ってから衰弱していき、自分の力では食べられなくなり、
いよいよ看取りの時期に入りました。
医療を行うなら病院、看取りならそのまま施設とのことでした。
点滴にしても病院なら栄養を与えることができるけれど
施設なら水分点滴のみとのこと。

つまり、処置をせずに息を引き取るその日を待つということ。
回復が望めないなら、苦しまず、長く過ごした施設の自分の部屋で、ということ。
概ね1週間以内でその日が来てしまうとのことでした。

私は母と妹と3人で祖母に会いに行きました。
コロナ禍で面会も全然できていなかったので、本当に久しぶりでした。

「おばあちゃん、来たよ!」

ベッドに横になっていた祖母は、とても小さくなっていました。
でも、確かに強く私たちの姿を目で捉えました。
言葉は発せないけれど、手を握るとしっかり握り返しました。
涙が溢れました。
泣いたら何かを察知されてしまうかもということは考えませんでした。

次はもうないことが分かっている。
祖母は今何を思っているのだろう。
時折頷くような仕草も見られたが、基本的には意思疎通はできない。

100年頑張って生きてきた祖母の命が、あと数日で尽きようとしている。

不思議な感覚。
突然亡くなってしまった祖父の時と違って、
ゆっくりじわじわと、祖母とは一緒にいないことが当たり前になった生活の中で、
回復を願うのではなく、この先の長生きを願うのではなく、
ただただ、今までの感謝を握る手に込めました。

そうして、祖母は私たちが会ってから6日後の昼に息を引き取りました。

To Be Continued・・・

# by mikikasai819 | 2022-12-31 16:56 | にっき(日々の出来事) | Comments(0)

元ラジオ局アナで今はフリーで活動中、河西美紀(かさいみき)のげんき・やるき・ほんきのつぶやき。


by mikikasai819