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祖母との別れを記す【上】

大晦日、いかがお過ごしでしょうか。
今年何かやり残したことはないかと言えば、
祖母との別れを記すことです。

この世を去ったのが10月26日。納骨が終わったのが12月13日。

祖父が亡くなったのが2009年。もう13年も前。
あの時は身内を亡くすのが初めてで、しかも高齢とはいえ突然だったので、
もうひたすら泣いてキツかったのですが、
文章をしたためることで気持ちの整理ができました。
(その時の記事はこちらから)

今回の祖母との別れはまた違った感情で向き合うことになりました。
やはり記しておいた方がいいなと思い、ここに残しておくことにします。
(暗い気持ちになりそうという方はスルーしてくださいね。)


★★★

祖母とは私が生まれたときからずっと一緒に住んでいました。
美紀という名は、最初は美樹という漢字が候補に挙がっていたのに、
「美しい樹木なんて名前負けする」と祖母が言って「紀」になったそうです。
(そもそも「美」を使う時点でキツイと思ったのは私だけ?笑)

幼い頃からとても厳しく育てられた記憶があります。
今思えば、祖母のしつけのおかげで今があると言っても過言ではないかもしれません。

また、とても多趣味で、習い事を大袈裟ではなく週7日通っているような人でした。
俳句、書道、墨絵、フラダンス、大正琴、体操、社交ダンス、カラオケ・・・
友達もとても多かったですし、旅行も大好きでした。
洋裁が得意で、小学校低学年くらいまでは祖母が作った洋服しか着ていませんでした。
これがまた、とても上手で、いつもワクワクしていたものです。

さらに日記を毎日欠かさずつけていたり、
新聞のクロスワードを毎週解いていたことも思い出します。
(その記事はこちら
国語力に長けた祖母でした。

そんな祖母は90代半ばまでは元気でした。
(もちろん年齢相応で弱りながらも)
このブログを検索すると、祖母のこともたくさん書いていたのが記録されています。

しかし、だんだんと衰えて、母はずっと介護をして、
長くなればなるほど大変な日々となりました。
認知症で私のことも分からなくなってしまいました。

施設に入ってからはなかなか会えず、
コロナ禍になったらさらに会えず、
祖母がいない生活が当たり前になってしまったのは否めません。

でも、解釈によっては、そうやって少しずつ少しずつ、
お別れをしていったのかもしれないと思います。

今年の3月に100歳を迎えた祖母ですが、
今年10月に入ってから衰弱していき、自分の力では食べられなくなり、
いよいよ看取りの時期に入りました。
医療を行うなら病院、看取りならそのまま施設とのことでした。
点滴にしても病院なら栄養を与えることができるけれど
施設なら水分点滴のみとのこと。

つまり、処置をせずに息を引き取るその日を待つということ。
回復が望めないなら、苦しまず、長く過ごした施設の自分の部屋で、ということ。
概ね1週間以内でその日が来てしまうとのことでした。

私は母と妹と3人で祖母に会いに行きました。
コロナ禍で面会も全然できていなかったので、本当に久しぶりでした。

「おばあちゃん、来たよ!」

ベッドに横になっていた祖母は、とても小さくなっていました。
でも、確かに強く私たちの姿を目で捉えました。
言葉は発せないけれど、手を握るとしっかり握り返しました。
涙が溢れました。
泣いたら何かを察知されてしまうかもということは考えませんでした。

次はもうないことが分かっている。
祖母は今何を思っているのだろう。
時折頷くような仕草も見られたが、基本的には意思疎通はできない。

100年頑張って生きてきた祖母の命が、あと数日で尽きようとしている。

不思議な感覚。
突然亡くなってしまった祖父の時と違って、
ゆっくりじわじわと、祖母とは一緒にいないことが当たり前になった生活の中で、
回復を願うのではなく、この先の長生きを願うのではなく、
ただただ、今までの感謝を握る手に込めました。

そうして、祖母は私たちが会ってから6日後の昼に息を引き取りました。

To Be Continued・・・

by mikikasai819 | 2022-12-31 16:56 | にっき(日々の出来事) | Comments(0)