このき なんのき かさいみき

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元ラジオ局アナで今はフリーで活動中、河西美紀(かさいみき)のげんき・やるき・ほんきのつぶやき。

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自分の目で見た釜石・陸前高田

先週の水曜日、私は岩手県釜石市在住の友人Yちゃんに会いに行ってきました。
大学時代の同級生で、最後に会ったのはもう10年近く前。
年賀状のやりとりはずっと続いていましたが、
「みきちゃん、よかったら遊びに来て」と数ヶ月前メールをもらったのがきっかけでした。

釜石といえば、東日本大震災で津波の被害を受けた地域。
あのテレビでの映像が頭をよぎります。
遊びに来てって・・・そういう感覚では・・・
でも、今、街がどんな風になっているのか、純粋に気になる・・・

「そう、だから見に来て。そしてラジオで話して!」

ニュースを伝える立場として、これまでの4ヶ月、たくさんの情報は頭に入っています。
でも、頭じゃなく、理屈じゃなく、自分の目で見て感じる重みはどんなものか。
Yちゃんは、私がマスコミの人間・・・放送局に属していなくとも
メディアに携わっている人間だからこそ、声をかけてくれたのでした。

確かに、何か理由がないとなかなか行ける場所ではない。
私はYちゃんに感謝しながら、足を運ぶことにしました。

もちろん、物見遊山というつもりは毛頭ないので、何かできることを!と考えました。
ただ、前後のお仕事のスケジュールからまとまった時間はとれず、日帰り強行だったので、
現地で体を動かすボランティアは難しい。

そこで、支援物資を持っていきたいと思いました。

震災直後は個人ルートの援助はかえって迷惑になったりすると聞いていたのですが
最近では変わってきているようです。(自治体によっても異なるが)

まずはYちゃんにメールで聞いてみたところ、
「仮設住宅への入居が進んで避難所が閉鎖されつつあるようだから、
ちょっと思い浮かばないなぁ」という言葉のあとに「そうそう、求人!」と返ってきました。
Yちゃんのご主人は高校の先生。高校生の就職が本当に大変なのだそうです。
助けられないけど、でも、あまりにリアルな回答でした。

そうかといって、やはり手ぶらで行くのはなぁ・・・と思い、
次に釜石市の災害対策本部に電話をして、何か必要なものはありますかと尋ねたところ、
丁寧に対応してくださいました。

結果、最初に出てきた単語は野菜ジュース。意外でした。
そのほか、殺虫剤や防虫スプレーということでした。
もしかしたら、現地で復興にあたっている方に配られるのかなとも思いました。

なお、必要な物資は日によって変わってきています。
少し前にネットで調べたときは「土嚢袋」と書いてありました。
多分、がれきの土を入れるために使うのでしょう。
いずれにしても、個人だからできない、資格持ってないからできない、
時間がないからできない・・・ではなくて、
助けたいという気持ちは必ず生かせるはずだと感じました。

さて、日帰りですからね、朝4時起床。(生放送のときと一緒!)
東京から東北新幹線で新花巻まで。そこから在来線で釜石。
家を朝の5時過ぎに出て、釜石到着は11時過ぎでした。
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駅でYちゃんが出迎えてくれて、もう、涙が出そうになりました。

「みきちゃーん、久しぶり!」
腕の中には1歳の息子さん。くりっとした目で見つめてくれました。
10年ぶりの笑顔の再会。なんだか不思議。

釜石駅前そのものは津波の爪あとは想像していたよりもありませんでした。
4ヶ月経っているということもあると思いますが、
ちゃんと車も走っているし、コンビニも開いていました。
ただ、道を挟んだ新日鉄釜石の敷地には、がれきが山積みになっていて、
それを見て、心臓の鼓動が早くなりました。

支援物資は災害対策本部の隣のテントへということでした。
自分の目で見た釜石・陸前高田_e0039787_23571260.jpg

ここで、野菜ジュース2箱と防虫スプレーを渡しました。
個人で持っていける量は限られていますが、
それでも誰かの役に立てればという思いでした。
「ご住所とお名前をお願いします」と
係の方(=宅配便業者でした。委託されているのでしょう)が対応してくださって、
最後に「ありがとうございます」と皆さんで挨拶してくださいました。
その横では、ダンボールに入った洋服を何着か選んで持っていかれる女性がいました。
あの時は寒かったのに、今はもう夏なのですよね。

ちなみに、Yちゃんは避難所に5日ほどいたそうです。
家は奇跡的に無事だったのですが、
震災当日、家の周りでは火災が発生し、しばらく近づけなかったのだそうです。
それでも、家が流されなかった人たちは、自分の家のお客さま用布団や
火を通さなくていい食料を避難所に運んで、他の方々に渡していたそうです。
助け合いがまさに行われていたのですね。
「自分たちの分を確保せずに提供しちゃってね、
いざ家に帰れたら布団が1式しかないことに気づいて、
家族3人で同じ布団で寝るはめになったよ」なんてYちゃんは笑っていましたが、
本当に本当に、大変だったのだなと思います。


話を先週水曜日に戻します。
釜石駅に到着し、物資を渡して、ちょうどお昼時になったので、
ご飯を食べようということになりました。
「この時期は本来ウニのおいしい時期なんだけどね。
どうしても今年はね・・・」とYちゃん。
駅前のサンフィッシュ釜石にある「まんぷく食堂」というところに行ったのですが、
確かに、入り口のところに、「北海道・青森産のものを使用」と但し書きが・・・。
新鮮な海鮮を提供するのがウリのお店なだけに、
地元のものを出せないのは本当につらいところでしょう・・・。
私は「5きげん政宗お宝丼」という、ウニ・いくら・ホタテを楽しめるメニューを注文。
普通においしかったのですが、多分、本当はもっとおいしいのだと思いました。
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お店の中はお客さんでいっぱいでした。
でも、作業服を着ていらっしゃる方(多分復興のために来ている)も多く、
偶然かもしれませんが、途中からは喪服の方々もいらっしゃって、
いつもなら海の幸を食べに来る観光客もいるでしょうに、
その雰囲気とは程遠いものでした。

さて、食べ終わったところで、Yちゃんの車に乗り込みます。
走り出してしばらくすると、駅前とは違ってきます。
道の両側のフェンスはなぎ倒されています。
明らかにがれきの数も増えてきます。
4ヶ月経っているので、既にそのがれきは何箇所かにまとめられています。

そして、外側だけが残っている家。
玄関や窓ガラスが津波で流されてしまっていて、中は空洞。
倒れそうなんだけど、倒れずに残っている集落。
ひとつひとつの家の前に、赤い旗がなびいています。
これは、がれき撤去の意思表示だそうです。
所有者の意思がわからないと、作業に支障が出てしまうということで、
釜石市では3色の旗が配られていました。

赤は全て撤去、黄色は建物を残してがれきのみを撤去、緑は手をつけないでほしい・・・。

私が回った地域は1つ黄色であとは全て赤。
家は流されずにあるのに、でも、傾いていたり、中がぐちゃぐちゃだったりして、
もう住むことは出来ない。どれだけ無念なことか。
ただただ、家の敷地でたなびく赤い三角の旗を見つめることしかできませんでした。

釜石だけではなく、実は、陸前高田市にも足を運びました。
それこそ、ニュースで何度も口にした街の名前です。
津波の被害が最も大きかった陸前高田。
釜石は、住めない状態とはいえ家そのものが残っている箇所も多くありましたが、
陸前高田は、もう、なんというか、
壊滅状態というのはこういうことかというくらい、本当に、何もありませんでした。
この陸前高田は、海岸から何キロも離れた先まで津波が押し寄せたため、
まさかここまで?!という人も多かったようです。

Yちゃんは「このあたりは大きな通りで、ファミレスやコンビニやガソリンスタンドが
たくさんあったんだよ」と説明してくれましたが、にわかには信じられません。

というよりは、以前を知らないので、ピンとこないのです。

言葉を選ぶのが難しいのですが、もう、その一帯が、巨大なごみ集積所としか思えません。
がれきの山も、どうやったらこんなに積み上げられるの?というくらいの高さです。
でも、これらは全て、震災の前は、誰かの大切なものだったのですよね・・・。
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海沿いには運動公園があったようですが、
その、野球場か陸上競技場か、グラウンドの照明だけは残っているのに、
あとは全てがれき。
鉄骨で作られた高層ホテルやマンションはかろうじていくつか残っていましたが、
とても使える状況ではありませんでした。
本当に、見渡す限り、平地。土。でした。
復興まで何年かかるのか、想像するのは困難です。

でも、その中で1本そびえたつ、松の木。
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海岸線に2キロにわたって続く名勝「高田松原」で7万本のうち1本だけ残った、松の木。
テレビでは見たことがありましたが、車の中からでも本物を見ると、
言葉にできない気持ちがこみ上げてきました。

驚いたことに、海沿いの仮道を走っていると、
すぐ横にまで海水が入り込んでいるのがわかります。
もちろん低い位置ですが、石を積んで堰きとめていました。
地盤が変化したからなのか。堤防だって、ないですよね。
Yちゃんは陸前高田に入った瞬間、
「ラジオをつけるね」と車のラジオのスイッチを入れていました。
ここのところまた余震があるから怖いということでした。
情報には敏感でなくてはなりません。

ところで、街をあとにするとき、いや、その前から、実は私は異変を感じていました。
「Yちゃん、車の窓、開いてる?」「ううん、開いてないよ」
「そう・・・」
数分後
「ねえ、やっぱりどこか、窓、開いてない?」
実は、陸前高田を走っていたら、のどが痛く、苦しくなってきたのです。
気のせいかと思っていたのですが、明らかにのどがおかしい。
確かに窓は開いていませんでしたが、
外気はほんの少しの隙間からでも車内に入ってくるものですよね。
がれき撤去の際にでる空気に無意識に体が反応してしまっていたのかもしれません。
作業をされている方々のこと、すごく考えさせられました。

釜石と陸前高田。
2つの街は「被災地」という同じ言葉ではくくれないほどに、まったく違う様相でした。
これは、自分の目で見ないとわからないことでした。

釜石に戻り、Yちゃん宅でいろいろお話をして、
あっという間に時間が過ぎました。

帰り、駅まで送ってもらう際に、渋滞にはまりました。
「災害支援の車が夕方は多く通るの」
そういう渋滞なんだなぁ。確かにトラックや自衛隊の車が多かったです。
Yちゃんと息子さんに別れを告げ、17時42分の電車で釜石を出て、
帰りは花巻下車、乗り換えて北上へ。ここから新幹線。
家に着いたのは日付変わった午前0時半でした。

長くなってしまいましたが、
私が見てきたこと、聞いてきたこと、ありのままを記しました。

考えた結果、写真は最小限にとどめさせていただきました。

でも、想像してみてください。

あの日、とてつもなく大きな津波が押し寄せてきて家が持っていかれてしまった、
何も残っていない土地、でも、
その1軒隣では、ベランダに干された洗濯物が、風に揺られているのです。

ほんの少しの差で、運命は大きく変わります。

今回被災地に行ったことで、ラジオでニュースを読むときの姿勢は、確実に変わりました。
今、生きている人たちが、復興に向けて1歩1歩、進んでいく。
何かできないか、東京にいても、きっと何かできる。
そう強く思うようになった、始発から終電までの19時間の行程でした。


※「みきちゃん、また岩手の沿岸に遊びにきてね。
今度は海の幸、マリンスポーツを楽しんでもらえればいいな」
Yちゃん、ありがとう。その日を楽しみにしています。
Commented by あい at 2011-07-20 09:22 x
陸前高田、ニュースによく出てきたので覚えています。
7万本のうちの一本残された松…
全部流されるよりも地震の被害の大きさを物語っていますね。

実際、被災地を見た人の話を聞いてはいましたが…

それに余震もたくさんあるみたいですね。

一日でいろいろ回ってこられたとのことですが、
本当にお疲れ様でした!
※お友達、ご無事でよかったです。
Commented at 2011-07-24 22:22 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by mikikasai819 at 2011-07-29 00:09
あいさん、やはり陸前高田市という地名は今回の震災で
非常に大きく報道されましたよね。
でももっともっと現状を知るべきだと思いました。
友達は元気に前向きに頑張っていて
ホッとすると同時に刺激を受けました。
Commented by mikikasai819 at 2011-07-29 00:15
非公開コメントをくださった方、ありがとうございます。
本当の意味での復興について考えさせられました。
個人でできないことを会社単位で積極的に動ければいいですよね。
そして、その支援を継続的に。
by mikikasai819 | 2011-07-19 23:43 | りょこうき(旅の記録) | Comments(4)

by mikikasai819