このき なんのき かさいみき:でんき(昔の出来事)
2021-09-12T00:50:24+09:00
mikikasai819
元ラジオ局アナで今はフリーで活動中、河西美紀(かさいみき)のげんき・やるき・ほんきのつぶやき。
Excite Blog
9.11アメリカ同時多発テロから20年
http://mikikasai.exblog.jp/29658173/
2021-09-11T23:25:00+09:00
2021-09-12T00:50:24+09:00
2021-09-12T00:47:33+09:00
mikikasai819
でんき(昔の出来事)
一生忘れられない衝撃的映像と、多くの方が亡くなられた悲しみと。
今なお争いや憎しみは世界のどこかで起こっています。
20年という月日は長いようでいて、あの日のことは昨日のことのように覚えています。
こういうきっかけは大事なので、2001年9月11日のことを改めて思い出して記します。
☆☆☆
エフエム群馬入社3年目の私の2001年9月11日は
遅れて取得した夏休みの真っ最中でした。
朝番組を担当していましたが代役をお願いし、母と長崎に旅行していました。
ハウステンボスに隣接したホテルに泊まりました。
それまで2人で旅行したこともなかったので貴重な時間でした。
夜21時過ぎ、部屋でくつろぎながら、どちらからともなく
「こんな機会も貴重だし、エステ頼んでみようか」という話になったのです。
ほどなくしてスタッフの方が部屋にいらっしゃいました。
ツインのベッドそれぞれに横たわり、スタッフの方にアロママッサージを施されていました。
「母娘での旅行、いいですねー。リラックスしてくださいねー。
あ、テレビつけていただいてもいいですよ―」
それもいいね、贅沢だね♪なんて言いながら、リモコンでテレビのスイッチを入れたら、
ワールドトレードセンターから煙が上がっていました。
いや、一瞬ではそれがどこなのかも分からなかったし現実なのかもわからなかったし
何か映画のワンシーンか?みたいな感じでした。
飛行機が突っ込んだことも知らず、「これは何ですか?」というような、
とにかくリラックスには程遠い映像が目に飛び込んできました。
そのうち、2機目が・・・
これがテロだということが分かって、大変なことになったと思いました。
だって、ニューヨーク!!!そうだよ!!!これ、ニューヨークじゃないか!!!
しばらくして震えが止まらなくなりました。
実は、当時私がお付き合いをしている人が何の因果か
ちょうどニューヨーク出張のときだったのです。
このビルの中にいるかもしれない、
中でなくても近くにいるに違いない、
どうしよう!!大丈夫なのか!?
慌ててホテルの電話から携帯電話にかけてみるも、全く通じません。
話し中の音ではなくて、今でも忘れません、
なんというか「通話不可」を告げるようなツーーーーという無機質な音。
明らかに異常事態を感じました。
(ワールドトレードセンターに携帯電話のアンテナがあったので
連絡が取れないのは当たり前のことでした)
どうしよう・・・
エステどころではなくなりました。
ずっとテレビを見つめ、どんどん情勢は悪くなり、
アメリカ全体がどうなってしまうのか、そもそも彼は無事なのか、
もう、冷静にいなさいというほうが無理でした。
でも、日本にいても何もできるわけでもないし、
私は今夏休み中で翌日の放送にも関われないわけで、
とにかく或る程度の時間まで電話をかけ続けて、
無理だと分かってからはベッドに横になりながら時間が経過するのを待つしかありませんでした。
母からは「心配だと思うけど、きっと連絡があるから、寝ないとだめよ」と諭されました。
・・・
・・・
・・・
日本時間午前1時。握りしめていた携帯が鳴りました。
表示は非通知設定。
私「もしもし!!!」
彼「あー、もしもし」
電話の主は彼でした。
私「よかったーーーーーー」
宿泊しているニューヨークのホテルの電話からかけてくれたようでした。
話を聞くと、どうやら日本で思い描いているニューヨークの様子とは違っていました。
彼が泊まっていたのはワールドトレードセンターからは離れた場所で、
驚愕の事実・・・彼自身も日本からの友人の電話でテロを知ったそうです。
友「ニューヨークにいるんだよね?大丈夫?」
彼「え?何が?」
友「テレビ見てみなよ」
このやり取りで初めて知ったというのです。そんなことってあるの?
さらに詳しく聞くと、ワールドトレードセンターの近くは大変なことになっているけれど、
自分がいるホテルの位置ではとても落ち着いているように見える。
ただ、マンハッタン島は封鎖されているので外にはもう出られないとのこと。
チェックアウトをやめてこのままホテルにいる方が安全なので
そのような指示が出たとも言っていました。
なるほど、確かに。
そして、そのあと彼が放った言葉は今でもとても覚えています。
「戦争になったらしばらく帰れないと思う」
戦争?
あ、ああ、そうか、そういう次元のことなのだ・・・。
自分の人生に「現在進行形では」入ってきたことのない言葉でした。
手足がスーっと冷たくなりました。
そうか、今、この瞬間、命は無事だと確認したけれど、
空港は当然閉鎖されているし、日本に戻れるのはいつになるか分からない。
すごい状況になってしまっているのだ・・・
それでも、彼が繰り返し私に伝えたのは
「こっちは日本で報道されているより落ち着いているから安心して」ということでした。
大きな事件はメディアは緊迫して色を付けて伝えがちで、
それを視聴者もどこかで重く受け止めるスタンバイができていて
「え、そうでもないの、そんなはずはないでしょ」と、肩透かしは嫌われる傾向にある・・・
なるほど・・・
心配な気持ちが真っ先にありながらも、報道のあり方についても
奇しくも大いに考えさせられた911だったことを思い出します。
結果的に彼は2日後の飛行機で日本に帰ることができました。
帰国後に聞いた話でもう1つ印象的なことがあります。
テロの前日=9月10日の夜、彼はなんとワールドトレードセンターに行ったのだそうです。
仕事を終えて自由行動の時間、展望台から景色を見たかったからだそうです。
しかし、残念ながら展望台開放時間はタッチの差で終わってしまっていて、
「ごめんね、また明朝9時から開くから来て」と警備員に言われたとのこと。
その時間になる前に、テロは起きてしまいました。
なんというニアミスでしょう。
結局昇ることはできないまま、ワールドトレードセンターは崩壊してしまいました。
警備員さんは無事だったのだろうか。
・・・
・・・
・・・
1年後=2002年の9月11日、彼はプライベートでニューヨークを訪れ黙祷を捧げました。
4年後=2005年、その彼は私の夫になって、
6年後=2007年、私も一緒にワールドセンター跡地を訪れて、手を合わせました。
その10年後=2017年、ワシントンDCを訪れホワイトハウスの前に行き、
ニュージアムというニュースの博物館を訪れ、911の時の報道を目の当たりにしました。
その都度、あの日のことを思い出し、心が痛みます。
20年経過した今、コロナ禍で訪れることはできませんが、
機会を見つけてまたニューヨークに訪れたいと思います。
あれ以来行っていないハウステンボスも行ってみたいです。
2001年、21世紀が始まったばかりの年、
2021年、世界は、日本は、どこへ向かっていくか。
どんな理由があってもテロは許されることではありません。
犠牲になられた方々のご冥福を心から祈ります。
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小学校の児童会選挙を思い出す
http://mikikasai.exblog.jp/29082884/
2020-07-05T23:28:00+09:00
2020-07-06T00:08:23+09:00
2020-07-05T23:28:53+09:00
mikikasai819
でんき(昔の出来事)
なんとなくのイメージや感情ではなく
論点をしっかり見極めることは大事だなと思った次第です。
そんな中で、ふと、小学校時代の児童会役員選挙を思い出しました。
(久しぶりに伝記モノ。ゆるーく書かせていただきます。)
小学校?児童会?子供の選挙でしょ?と侮るなかれ、
私が通った小学校は自分たちで自分たちの行事を運営していく力を磨く場所でした。
各学年の各クラスでそれぞれ意見を持ち寄って体育館で代議員会なるものが行われる、
今思えばすごく「民主主義」を実践する学校でした。
選挙の際は候補者と応援者が各クラスにいわゆる「遊説」しに行くのです。
給食の時間、みんなに話を聞いてもらうんですよ。今思うとすごいですよね。
私は5年生と6年生の2度、役員に立候補をすることになりました。
「みなさんこんにちは!児童会会長に立候補した河西美紀です!」
自分からやりたかったわけではないですが、人前で話すのは得意だったし、
クラスで推薦されてなんとなくそういう流れになりました。(小学校あるある)
懐かしく思い出されるのが、いわゆる「公約」を話すということです。
「私が会長になったら、こういうことをします!」という、皆さんへの約束です。
そう、都知事選挙と何ら変わらないですね。
それが小学校生活なのか都民生活なのかの違いだけです。
肝心の公約は・・・詳細は覚えていませんが(苦笑)、
多分、当時次のようなことを言ったと思います。
「廊下や階段の踊り場に【意見箱】を設置します。
いつも思っているけれどなかなか言えないことを書いて箱に入れてもらって
ひとつひとつ児童会で解決していけるように取り組みます。
小さな心の声を聞き逃さないようにしたいです。」
まあ、どこの学校でもやっていた感じでしょうか、きっと(苦笑)。
意見箱と当時言っていたか、目安箱だったか、
その時はまだ自分の学校にはなかったんですよね。
小学生だと公約で決めるというよりは、仲の良さ・人気・兄弟の有無などが正直左右しますが
これは本当に心からやりたかったことでした。
結果的に、児童会での活動で学んだことは実にたくさんあったなぁと思います。
そういえば、5年生の時(つまり選挙は4年生の3月)に
私の応援演説を自ら切望して引き受けてくれた男の子がいました。
本当は彼が立候補したほうがいいくらいにリーダーシップのある子だったのに
「僕は河西さんがいいと思う!」となぜか最初からすごく推してくれて、
あれこれ知恵を絞って選挙運動を盛り上げてくれたのです。
おもしろいけれどまじめ、そのクリエイティブさは小学生離れしていました。
あー、すごいなぁってただただ尊敬する毎日でした。
彼の応援で乗り切れたといっても過言ではありません。
選挙後、当選してお礼を言ったとき、こう返されました。
「おめでとう!頑張ってね。僕はもう引っ越しちゃうけど」
・・・え!!!
初めてそこで、すべての事情が理解できました。
ああ、来年度もう彼はこの学校にいない=立候補はできないから
私を全力で推薦して応援にまわったのか・・・。
そしてものすごく心がざわざわし、急に寂しくなりました。
これが私の2番目の初恋だったと思います(微笑)。
・・・
・・・
・・・え?初恋なのに2番目?
はい、子供のころはよくわからなくてね・・・
どれが初なのか今も確定できないのです。(おいっ!)
・・・とまあ、30年以上も前のことを支離滅裂に懐かしく思い出したところで。
(今はもう児童会というシステムがない学校が多いとWikipediaで知って驚いたところで。)
上でサラッと記した「小さな心の声を聞き逃さない」っていう文言。
これ、我ながらすごく大事なことだなって今大人になって改めて思いました。
大きな声は苦労しなくても聞こえてきます。でも、声をあげられない人もいます。
ひとりひとりの心に置き換えてみても同じことが言えて、
声を大にして言えることもありますが、なかなか言葉にできないこともあります。
都知事選挙をきっかけに色々考えたことは決して無駄にはならない。
そう思って、また明日から東京で生活していきます。
皆さんも体調には注意してお過ごしくださいね!
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としまえんの個人的思い出
http://mikikasai.exblog.jp/28829305/
2020-02-03T11:16:00+09:00
2020-02-03T11:21:04+09:00
2020-02-03T11:16:46+09:00
mikikasai819
でんき(昔の出来事)
リニューアルするのだと思っていたら閉園という2文字が飛び込んできたので、
なんだか心がざわざわし始めました。
としまえん。
自分の遊園地好き(遊園地フリーク)を支えてくれていた思い出の場所。
私の実家は東京都小平市で、遊園地といえば豊島園より西武園が身近でした。
西武園には幼い頃から何度行ったか分かりません。
逆に豊島園は小学校卒業まで行ったことがありませんでした。
都内だから遠くもないけれど、決して近くもないという距離感だったからです。
(西武園は小平駅から直通で15分、豊島園は小平駅から乗り換えて50分)
私は自分のホームページにも「ジェットコースター」が好きと書いています。
これが確立したのは中学1年生の時でした。
まさに西武園ゆうえんちに当時の友達と行って乗らざるを得なくなって
それまで怖かったコースターに無理矢理乗らされて覚醒してしまいました。
「なんと面白いんだ!血が騒ぐ!」と大興奮したことを覚えています。
「美紀ちゃん、あんなに嫌だと言っていたのに・・・」と
周りが驚いていたことも覚えています(笑)。
そんなわけで、ジェットコースターが一気に好きになったのですが、
自分の活動範囲にある遊園地なんてそんなに多くはありません。
うーん、どこかいいところないかな。
中学2年生のある日、思いついたのです。
としまえん!魅惑の響き!行くしかない!!!
当時私は2年C組の学級委員をしていました。
どういう経緯だったか忘れましたが、多分自分の思いつきで
豊島園に行きたい人ー!と募ったところ、
これがまた、ほぼクラスの過半数以上!男女混合!!
え?凄い人数なんですけど!?みたいになって。
すると、これまたどういう経緯か忘れましたが、
担任のY先生(男性。当時40代?)までも一緒に行くことになりました。
さながらクラスの遠足です(笑)。
団体割引料金などを調べた記憶があります。
当時インターネットはないので、電話で問い合わせたのかなぁ。
としまえん当日、私はすごく嬉しくて、めちゃめちゃ楽しんでいたと思います。
西武園とは違う!初めての空間!
ジェットコースターは3種類ありまして、
もう、時間の許す限りガンガン乗りました。
ちなみに、Y先生が参加者全員に現地でソフトクリームをご馳走してくれました。
多分20人はいたと思うので、350円くらいしたら7,000円?え?
大人なら気軽に出せるのかな・・・と思いながら未知の世界にドキドキしました。
としまえんは中学3年生の学年の卒業旅行?の場所にも選ばれました。
実はディズニーランドだと思っていたのに、
私たちの代になったら、なぜか、としまえん。え・・・?
これはY先生が気に入ってしまって、としまえんにしたという噂が流れました。
うわー、私たちのクラスで行ったあの日のせい?と落ち込みました(苦笑)。
そんなとしまえんの思い出。
もちろん、高校・大学でも訪れたことはあるのですが、
やはりこの「初めて」「みんなで」行った「幹事として頑張った」日を
一番に思い出しますね。
・・・跡地はハリーポッターの施設かぁ。
USJのアトラクションも話題になっていますが、
私は本も読んでいなくて映画も観ていなくてピンと来ません。
昭和の古き良き遊園地がなくなってしまうのは本当に哀しい。
でも、自分自身遊びに行っているかというと・・・
大人になったらめっきり行ってないから、何か言える立場にはない・・・。
うーん・・・遊園地、頑張ってほしい・・・
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実況・描写の苦い思い出
http://mikikasai.exblog.jp/27595917/
2018-10-14T14:11:00+09:00
2018-10-14T14:19:19+09:00
2018-10-14T09:43:08+09:00
mikikasai819
でんき(昔の出来事)
その前に来週の披露宴司会の打ち合わせがあるので
モードを切り替えていかなくてはなりません。
さて、そんな中でも、やはり、昨日の花火の描写について、
自分でもう少しこうすべきだったなぁという思いが
まだくすぶっておりまして(苦笑)。
まあ、反省しても後悔するなということなのですけどね。
そんな中、苦い思い出がよみがえってきました。
久々に伝記ジャンル。
・・・それは、1998年。うわー、20年前だ(苦笑)。
私はアナウンサーになりたい大学生で、
全国津々浦々放送局を受験していました。
5月に富山県にある北日本放送の試験がありました。
なんと4日間に渡るものでした。
まず初日(1次試験)に1分ほどの原稿を渡され、
その場ですぐ合否が言い渡されます。
結構これが露骨で、容赦なく落とされます。
読みの基本ができていないとダメということですね。
「さっき富山に着いたのに、もう帰るの?たった1分?」と
泣きそうな女の子がいたことをよく覚えています。
私は・・・ありがたいことに合格してその場で宿泊費が渡されました。
サバイバルクイズみたいですよね。
そして翌日。そのまま2次試験。22人。
筆記のあとカメラテスト(ニュースをアナウンサーのように読む)、
さらにディベートと自己PR。
結果は皆が集まったところで発表され、私を含め11人通過でした。
隣の席に座っていた人は、泣きながら荷物をまとめて部屋から出ていきました。
ここまでは合格する側の立場でしたが、翌日の3次試験。
結果から言えば私はここで通過できませんでした。
理由は明快でした。
お恥ずかしいですが、まあ、この仕事に就く前ですし、
記憶としてここに残しておきましょうか。
・・・
・・・
「この部屋を描写してください。」と言われて大失敗したのです。
写真を見てその様子を伝えるなどの練習はしていましたが、
大抵そういうものは特徴あるシーンだったりするわけで。
今、この、面接会場の、特に何の変哲もない応接室を・・・?
・・・今なら部屋の広さ、部屋に置いてある物、
ありとあらゆるアンテナで話し続けると思うのですが、
当時の私はこういう課題が初めてでした。
どうしよう、でも、やるしかない。
「面接官が5人います・・・」
まあ、確かに目の前の描写だけど・・・(苦笑)
その時、
部屋の窓の外から青空が見えたのです。
「窓から見えるのは青い空です・・・」
まあ、拙いけれど、これも描写としようか・・・(大汗)
問題はそのあと。
「これだけのお天気だと布団を干すと気持ちがいいと思います。
私の実家は寝具店を営んでおりまして・・・」
そう、描写と言われているのに、フリートークに無理矢理持っていき
自己PRで流暢に乗り切ろうとしてしまったのです。
完全に相手が求めているものとは異なります。
でも、これが自分の限界でした。
「はい、結構です。」
そのあと面接官の皆様から
「惜しいなぁ。昨日原稿しっかり読めていたのに」と言われました。
嫌な予感以外ありません。
夕方4時半、この日は番号が張り出されたのですが
私の番号はありませんでした。
11人まで残ったのに、最後の5人には残れませんでした。
この日の翌日が最終試験でした。
こうなってくると1次試験でダメだった人より
(って比較をするものでもないけれど)
2日間通過できた分までも悔しさが増してきます。
一緒に帰ることになった(つまりは不合格だった)男の子は、
あまりの悔しさからかエレベーターの壁をいきなりガン!と叩いて
ビックリしました。
おいおい!と思うかもしれませんが、
本当にアナウンサーになりたかった当時の学生たちにとって
真剣勝負であったことは間違いない事実です。
私自身はさすがに局を出るまでは平静を保ちましたが、
富山駅まで来たところで号泣しました。
明日最終だったのに。
というより、描写が全くできなかった自分の未熟さに。
・・・あれから20年。(きみまろ風に)
ニュース・情報を正確に分かりやすい言葉で伝えることや
司会の現場で場の空気を醸成することなどは気づけばベテランの域になりましたが
実況・描写の分野は、あまり足を踏み入れていないなぁ・・・と
昨日の花火大会で思ったのでした。
昔はオールマイティーなアナウンサーになりたい!と思っていましたが
20年経てば、自分の得意なもの、そうでないものもあります。
実況専門で頑張っている同業者に
「ニュースはどうも苦手で・・・」とか
「司会は実はやったことない」と言われることもあります。
それでいいと思うのです。
でも、ふと、あの北日本放送の応接室の・・・
やけに窓からの青空が目に入ってきた、
いや、それしか私を救う道がなかったあの瞬間のことを思い出して
遠い目をしてしまったのでした。
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ブログ開設記念日
http://mikikasai.exblog.jp/27460237/
2018-08-01T22:48:00+09:00
2018-08-01T22:56:56+09:00
2018-08-01T14:32:08+09:00
mikikasai819
でんき(昔の出来事)
2005年の8月1日に書き始めました。
FM群馬に在籍していた頃から
会社のアナウンサーページに頻繁に日記のような文章を書いていました。
(まだブログという形式ではなく、スタッフにお願いして
Upしてもらっていた時代です。)
退社と同時にそれらの文章は消えました。
またすぐに自分の力でブログを立ち上げようと思いながら
当時、2年7ヶ月もの月日が経過しました。
群馬のリスナーさんは「待っています」と言ってくださっていたけれど
いざとなるとどうやって始めていいのかもアナログ人間ゆえ分からず
詳しい人に助けを求めても自分の希望の伝え方が分からず
やる気はあるのにただただ焦りが先行する、そんな日々でした。
もう私のことは忘れられてしまったかなと思いながら、
自分が自分らしくいられる場所で自分の想いを記そうと思い、
2005年にとうとうブログをスタートさせ、
その後2011年にはホームページを立ち上げました。
ひとりでは何もできないことでした。本当に、多くの協力があっての今です。
この記事をもって4077件目だそうです。
短いものから大作?まで、そんなに書いてきたのかなと思います。
このブログのタイトルもどうしてこういうものなのか、
改めて説明する機会も減ってきましたが、
これは、私が放送局の就職試験のとき、
「今の気持ちを五・七・五で表しなさい」という問題が出たところが出発点です。
何を書いていいのか困った当時の私は
「乞うご期待 このきなんのき かさいみき」
このように書きました。
♪このきなんのききになるき~♪は、日立のCMでおなじみの歌ですよね。
この日を境に私のエントリーシートのキーワードになっていきました。
その後、別の放送局で、試験が1次、2次、3次・・・と
どんどん先に進んでいったあるとき、
役員面接だったでしょうか、
忘れもしない、7人の面接官に対し学生は私だけでした。
「『このきなんのき』の木はどこにあるか知ってる?」と聞かれました。
!?
正直わからなくて、うろたえて、苦し紛れに出した答えは
「外国です」
一斉に7人がどっと笑いました。
こちらは大真面目でウケを狙ったわけでもないのに、
どうしてこんなに笑われているのか、
当時は分からず「えへへ」と照れ笑いをするしかできませんでした。
「面白いね。次の面接までに調べておいて!」
「は、はい」
そうして、最終面接に進んでいったというわけです。
(ちなみに内定はもらえませんでした。現在、汐留にある局です。笑)
・・・とまあ、昔話になってしまいましたが、
こういう経緯で「このきなんのきかさいみき」という言葉があり、
アナウンサー受験からだいぶ経ってブログのタイトルになり、
さらに今は、エフエム世田谷の番組内で
「河西美紀のこのきなんのきまちあるき」というコーナーが生まれたのですから
随分と長いお付き合いです。
私と名刺交換してくださった方はご存知ですが、
私の名刺は「このきなんのき」をモチーフにしたイラストが入っています。
ちなみに「外国です」の正式な答えは・・・ハワイですね。
モアナルア・ガーデン・パークで日立の樹とご対面した時には
本当に感動しました。10年前です。
私のHPのトップページの写真はまさにこの木です。
というわけで、長々とすみません。
「このきなんのきかさいみき」のブログは、息絶え絶えでありながらも
14年目に突入いたします。
こういう風に喋るようにPCのキーボードを打つのはやはり気持ちがいいです。
そういえば、今日豊洲でお仕事をしたのですが、
終わった後にいつもお世話になっている方から
「河西さんのブログにはアナウンサー受験の時の話が載っているんですよね。
ホント、壮絶な体験でしたよね」って言われました。
私自身もそういわれて、先ほど読み返しました。ああ、こんな感じだったなぁって。
よかったら見てやってください。
「伝記(でんき)」のジャンルの過去記事にあります。
でも、受験のエピソードは冷静に考えるともう20年前の出来事なのです。
そう思うと恐ろしすぎます。
ついこの前のことのようなのに・・・と言いながら歳を重ねていくのでしょうね。
まあ、何はともあれ、「このきなんのき10ねんさき(10年先)」も
こんな風に元気にマイペースにブログを記していられるよう、頑張ります。
これからもよろしくお願いします。
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時代ごとの卒業式
http://mikikasai.exblog.jp/27167427/
2018-03-30T06:05:00+09:00
2018-03-30T06:14:43+09:00
2018-03-30T06:05:54+09:00
mikikasai819
でんき(昔の出来事)
かくいう私も大学卒業時には袴で出席しました。
大好きなんです、袴。
成人式の振袖はたいそう似合わなかったけれど(苦笑)、
袴は自分にしっくりきた記憶があります。
ちなみに当時は赤が流行っていて、周りの同級生は赤ばかりだったので
あまのじゃくの私は青を選びました。
あー、また着る機会があったらなぁ。
さて、各時代の卒業式のこと、ふと思い出したのでここで記しておきます。
(完全に伝記ジャンル)
小学校
ひとりひとりが決意を述べてから卒業証書を受け取るという式だった。
みんな泣いていたけれど恥ずかしいから泣くもんかと思っていたのに
最後の合唱で担任の先生が泣き出したのをみて完全にもらい泣きをした。
今でこそ私立に進学するのは珍しくないが、
30年前なのに学年の3分の1が私立に行くという驚く事態に。
寂しかったなぁ。それだけ地元の公立中学が荒れていたということ。
この時代、本当に校舎の窓ガラスが割られていたし、
先生の車がひっくり返されていた。
中学校
最後の合唱で泣くわけにはいかなかった。
なぜならピアノ伴奏だったからだ。
全員で歌う大地讃頌、感動したなぁ。
制服の第2ボタンをもらうことはできなかった。
なぜなら、付き合っていた男子から冬にフラれたばかりだったからだ。
お別れするなら卒業してからにしてほしかったものだ(苦笑)。
ちなみに失恋理由は・・・私が相手を意識し過ぎたあまり
恥ずかしくて学校で全く話せなくなってしまったからだった。
かわいいじゃないか、自分(笑)。今ではありえない(爆)。
高校
女子高だったので第2ボタンという儀式はそもそもなかった。
皆勤賞で表彰された。
私ではなく親が起こしてくれたおかげで無遅刻無欠席だった。
寝坊しなかったのは母だ。間違いなく母に捧げたい。
校歌斉唱の際、最後だししっかり歌おうと思って大きな声で歌ったら、
この日に限って思いっきり歌詞を間違えた。
サビの歌詞が、校名のあと、
1番 その名も高し 2番 その名も久し 3番 その名も清し
似ているんだよね・・・おかげで周りのクラスメートが吹き出した。
しんみりしていたのに申し訳ない!
大学
全体での式のあと、学部の専修ごとに教室が分かれた。
なぜか全員に缶ビールが配られた。
あれは今思えば誰が用意したんだろう。大学か?
4年間授業に真面目に出席し板書をしっかりまとめていた最前列のMくん。
テスト前に直接かつ間接的にお世話になった人多数のため、
(私も例外なく。Mくんのことは一方的に知っているだけ。)
卒業できたのは彼のノートのおかげだということで
200人近い学生たちで500円ずつカンパしてお礼をした記憶がある(笑)。
夜はゼミのみんなで飲みに行き、朝までカラオケ。
既にFM群馬でアナウンサー研修を始めていたため、
歌い過ぎて喉が痛くなったとき焦って冷や汗が出た。懐かしい。
こんな感じ。既に大学卒業ですら20年前という恐ろしい年月の経過。
でも、全部大事な思い出。記憶が薄れぬうちに記してみた。
(もうここまで忘れていないんだからこの先もきっと忘れない。
最近のことはすぐ忘れるのにね・・・)
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お姫様に憧れた私
http://mikikasai.exblog.jp/26119362/
2017-10-19T01:11:00+09:00
2017-10-19T01:41:23+09:00
2017-10-19T01:11:52+09:00
mikikasai819
でんき(昔の出来事)
年少さんのとき、おやゆび姫の劇をやった(ようだ)。←記憶があまりないが。
【あらすじ】
おやゆび姫は、チューリップの花から生まれた親指ほどの大きさしかない小さい少女。
ある日、ヒキガエルに誘拐されてしまう。魚達の助けで何とか脱出するものの、
その後、コガネムシに誘拐され、更に置き去りにされてしまう。
秋になり、親指姫はノネズミのお婆さんの許に居候すると、
隣の家の金持ちのモグラに結婚を強要される。
しかしモグラの家にいた瀕死のツバメを介抱し、
結婚式の日に親指姫はツバメと共に、花の国へ行く。
そこで親指姫は、花の国の王子様と結婚する。
・・・おぼろげに覚えている。私はお姫さまの役がやりたかった。
でも、選ばれたのはナナちゃんという可愛い女の子。
幼心に納得していた。
悲しかったのは、結果的に私が演じることになった役だった。
私は写真の中央で男の子2人と一緒に満面の笑みで写っている。
頭につけている絵は「モグラ」である。
そう、私はなぜか「モグラ」役だったのだ。
ほかにも「ツバメ」とかあるのに、どうして「モグラ」?
金持ちのモグラは別にいたので、
私はおそらく子供のモグラ、または近所のモグラといったところだろう。
今でこそサバサバと男っぽいところも持ち合わせているが、
当時は純粋にお姫様になりたいような子で、
モグラを受け入れるだけの気持ちを持ち合わせていなかった。
でも、演じているときの顔はニコニコ。
集合写真には悲しそうな悔しそうな顔でブスッとしていた。
・・・
・・・
・・・お姫様になるチャンスは小学校4年生の時にもやってきた。
「森は生きている」という劇だった。
【あらすじ】
新しい年を迎える大晦日、わがままな14歳の女王(姫)が、
四月に咲くマツユキ草がほしいと言い出したために、国中は大さわぎ。
ごほうびの金貨に目がくらむ継母のいいつけで、
マツユキ草を採ってくるようにと一人の娘が真っ暗な森に追いやられる。
そこでは十二月の精たちがたき火を囲んで新年の儀式の最中。
娘の話を聞いた四月の精は、他の月たちに頼んで一時間だけ「時」をゆずってもらった。
娘はマツユキ草を手に入れたが、それを渡された女王は
自らマツユキ草を摘むために吹雪の森へと出かける。
しかし、そこで待ちうけていたものは…。
オーディションが行われ、先生が配役を決めるという形だった。
私はこの時もお姫様に憧れた。
今思えばこの物語においては姫を志願するような内容ではないと思うのだが
とにかく他の役は考えられなかった。
どんなオーディションだったか内容は覚えていないが、姫を希望していたことは覚えている。
それなのに、蓋をあけたら
「河西さんは娘の役です。おめでとう」と言われた。
「ええええ!!!???」
娘・・・この物語では主役だ。そう、私は主役に選ばれていた。
ごめん、ちっとも嬉しくない!!!(涙)
今ならこの栄誉を心から喜ぶし、実際に娘役を演じられた経験はとてもよかったのだが、
当時は姫がやりたい私にとって薄汚いみすぼらしい格好の娘を演じることは
決まった瞬間、ちっとも幸せではなかったのだ。
どうして?もし、演技を認めていただけたのなら、姫がやりたいのじゃ!!!
(ショックのあまり語尾おかしいぞ)
しかし、叶わなかった。
何がそんなにお姫様に惹かれる要因?
多分、衣装だったのだろうと思う。
日頃絶対に着ないようなドレスを着てみたかったんだ、きっと。
さらにその後、だいぶ時間は経ち、
結婚式でカラードレスを着るチャンスはあったのだが、
これが、いざ試着の時に気づいてしまった。
「実は似合わない・・・(爆)」。
結局、披露宴では白のドレスのみにした。
花嫁にはなったけれど、姫のようにはならなかった(笑)。
ちなみにお姫様抱っこという芸当もありえなかった。
(夫)「力がないから無理だよ」
(私)「そうだね。怖いからいいです」と危機回避(笑)。
そんな私も、以前2年4か月在籍した仕事場の晩年、
ある女性スタッフに「姫」と呼ばれていたことがある。
なぜかは分からない。別に姫のような振る舞いもしていないけれど。
ナレーションだと前面に出ることが多いからかな。
姫、ああ、私が以前憧れた響きだったなと思った記憶がある。
それももう10年以上前の話になった。
・・・この話、どこにオチを持っていくの?(大汗)
と、とにかく、姫に憧れていた過去があるという、そのことを、
幼稚園のおゆうぎ会の写真が思い出させてくれたということ。
そして、モグラをやっているときの気持ち、これ、5歳なんだけど、
案外、覚えているものだなぁということ・・・。
笑っているけれど、心では泣いていたんだね・・・。
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一声入魂から10年
http://mikikasai.exblog.jp/25906169/
2017-07-10T23:59:00+09:00
2017-07-11T00:12:12+09:00
2017-07-11T00:00:39+09:00
mikikasai819
でんき(昔の出来事)
きっとこの先も忘れられないのが、10年前の7月10日の出来事です。
それは、当時担当していたお仕事の契約終了日でした。
私は2005年の3月から2007年の7月10日まで、
J-SPORTS(前身はスポーツ・アイ)の「速報!スポーツTV」という携帯サイトで
プロ野球の試合結果を読むナレーションをしていました。
サイトは立ち上げからのスタートだったので、思い入れはひとしおです。
ここで出会った仲間たち(最近ご無沙汰の人も元気なのかなぁ)、
ここから派生したお仕事(本当に感謝しています!)、
間違いなく今の私を形成しています。
あれから10年経ったことがちょっと信じられない気もします。
でも、記録に残した当時のブログを見たら、非常に懐かしくなりました。
やはり書いておくものですね。
ああ、10年前の今頃、号泣していたのかー、熱唱していたのかーって。
そして、10年後も私、喋るお仕事、していますよ。
あの日の記述はこちら。
久しぶりに当時の思い出話がしたいものです。
それにしても、10年・・・かぁ。
※写真は、スタッフがみんなで寄せ書きしてプレゼントしてくれたボールです。
一球入魂ならぬ「一声入魂」の文字。
ずっと大切に飾ってあるのですが、今日久しぶりに、しっかりと手に握りました。
私の宝物です。
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スタージェットへの想い(私とTDL)
http://mikikasai.exblog.jp/25894577/
2017-07-05T17:47:00+09:00
2017-07-05T17:49:32+09:00
2017-07-05T17:47:14+09:00
mikikasai819
でんき(昔の出来事)
その昔、本当によく行きました。
小学生の時は家族や家族ぐるみで親しい友達グループと。
中学生や高校生の時は同級生と。
大学時代は彼氏とのデートで。(最高の思い出も最悪の思い出も。笑)
社会人になってからは、なんと取材で!
(プーさんのハニーハントができたとき、私、当時群馬から一人で上京しましたから。
テレビのアナウンサーがカメラの前で撮影しているとき、
ラジオなので機材を片手に一人で取材していましたよ(笑)。)
とにかく、昔はディズニーランドに相当行きました。
(まあ、考えてみれば、遊園地オタクだった時代もあるし。)
・・・と、いろいろある中で、実はさかのぼると
1983年4月のグランドオープンの直前に
私、パーク内に行っているのです!!今日はこの時のお話。
どうしてそういうことができたかイマイチわからないのですが、
両親がオープン前のプレチケットを入手することができたようで、
家族で車で行きました。貴重な機会です。
どうやらディズニーランドというものができるらしい、すごいらしい。
当時小学校1年生でしたから、まだどれだけすごいかは分かりませんでした。
でも、多分、西武園ゆうえんちとは違うだろうと、思っていたのです。
(すみません、西武園大好きなのですが、
家から近かったので子供のころあまりに行きすぎて
ここが基準になってしまっていたもので、わざとこういう表現です。)
到着して、東京ディズニーランド、最初の印象。
混んでいる。
6歳の私の感想はひたすら「人がいっぱいいる」でした。
当然、乗り物も楽しみにしていったのですが、
あまりの人でどのアトラクションも大行列。
まだグランドオープン前のはずなのに。
下手すると、何も乗れないまま帰ることになりそうな、
大袈裟ではなくそんな大混雑でした。(子供だから余計にそう思う)
そして、親から「あれなら乗れるよ」と言われたのが
スタージェットだったのです。
えー、あれ、西武園にもある!!(涙)
よく比較すれば乗り場も背景も違うのですが、
当時、飛行機でグルグル旋回するものは乗ったことがあったので、
正直ちっとも新鮮ではなかったわけです。
本当にそれはショックでした。
もっともっとディズニーの雰囲気全開を期待していたのに。
もう1つ乗れたのもキャッスルカルーセル。
これ、カルーセルっていうけど、メリーゴーラウンドだよー!(涙)
つまらないー!!!(今ならむしろ優雅に乗りたい)
というわけで、グランドオープン時に乗れたアトラクションは
いつもの西武園と変わらない2つのみ。
(西武園さん、ホントすみません、大好きです)
というわけで、スタージェットの思い出といったら、
そんな子供のころのガッカリした気分が一番に思い浮かぶのです。
・・・
・・・
・・・
今日、そのスタージェットが今年の10月10日をもって
クローズすると発表されました。
走馬灯のようにこのときの気持ちがよみがえりました。
ごめん、スタージェット。
始まるときに乗ったんだから、終わるときも乗りたいな。
純粋にそう思いました。
1983年の当時「もっと違うものに乗りたかった!」という残念な気持ちではなく、
2017年の今、「最後に乗れてよかった!」と思えるフライトにしたいなと。
もう何年も行ってないけれど、これだけ乗るためにというのもいいのではないかと。
ふと、そんな風に、思ったのでした。]]>
滑れないけど格好良さげなスノーインフォメーション
http://mikikasai.exblog.jp/25288311/
2017-02-04T23:17:00+09:00
2017-02-05T00:42:50+09:00
2017-02-05T00:36:45+09:00
mikikasai819
でんき(昔の出来事)
私はそこで「湾岸スキーヤー/少年隊」を流して、
自分のスキーのエピソードをお話しました。
番組スタッフには大いに笑われましたので、ブログに記しておこうと思います。
・・・スキーというスポーツ、私には本当に縁のないものです。
残念ながら、その縁は自ら遠ざけてきました。
「私をスキーに連れてって」に感化されたバブル世代ではありませんが
それでも周囲にはスキーが好きな人が多くいました。
子供の頃から一度もゲレンデに行ったことがなかった私は
颯爽と滑る姿になるまでには相当大変で、転んだら骨折する・・・というような
相当なネガティブイメージがありました。
始めるきっかけはいくらでもあったのです。
①高校3年の冬は幼なじみの男の子からスキーに誘われました。
彼は男子校だったので、女子校の私に周りの友達を連れてきてくれと
まあ、そういう魂胆があったのだと思います(笑)。
「ごめん、無理」
「え?どうして?」
「スキーは無理。できない。」
「大丈夫だって!教えてあげるからさ!」
「いいよいいよ、私に気にせず滑ってきてよ」
「一緒に行こうって言ってるのに!」
「とにかく、ごめん。スキーだけはパスさせて!お願い!」
※「キャー、滑れない!こわいぃぃー!!」と可愛い声をあげながら
手取り足取り教えてもらった方が青春の思い出になっただろう・・・。
でも、やっぱり怖くて無理だった。
②大学2年の冬、アルバイト先の仲間でスキーに行く話が持ち上がりました。
「ごめん、無理」
「え?どうして?」
「スキーしたことない」
「大丈夫だよー、私も今回スキーデビューするから!」
「いや、あのー、怪我するの嫌でさぁ」
「大丈夫だってー。一緒に行こうよ」
「河西、ホント行かないの?」
「ごめん、スキー以外なら参加するから!」
※どんなイベントでも前向きな私がこれだけは頑なに断り続けた。
結局、行けなかった先輩とカラオケに行き歌いまくった(笑)。
③社会人2年目、大学時代の友達(スキーサークル所属)に教えてもらうことになりました。
「おー、スキーとうとうやる気になったの!」
「うん、群馬に就職したんだし、スキー場いっぱいあるし、何事も経験だよね」
「わかった。それじゃ、次の週末車で前橋まで迎えに行くから。」
「よろしくね!!」
スキーウェアは会社の先輩が全て貸してくれました。
「楽しんでおいでー!」
いざ当日。
「ごめん、これじゃ今日は無理だ」
私のセリフではありませんよ。友達のセリフです。
なんと、大雪により関越自動車道通行止め!
そもそもの問題、東京から友達が来られなくなりました。
「えー!!!」
せっかく覚悟を決めたのに、ウェアも借りて準備万全だったのに。
私のスキーデビューはお預けになりました。
・・・
・・・
・・・
きっとこのまま人生でスキー場には行かないんだろうと思ったら・・・
「せっかく河西さんやる気になったんだから行きましょう!」
スキーウェアを貸してくださった会社の先輩夫婦が
連れて行って下さることになりました。
その年の4月1日。まあ、春スキーですね。
かたしな高原スキー場に行きました。
スキー専門のコースですよね。
河西美紀、25歳でスキーデビューを果たしました。
まずスノーブーツを右左逆に履いて混乱したところから始まりました。
(「こんなにキツいんですね」と真面目に言ったら先輩が苦笑した)
正真正銘人生初のスキーなので、ボーゲン云々の前に、リフトに乗れないわけです。
乗っても降りられない。ホントにこんなにつらいのかと。
だから、まずは歩くことから。
周囲の子供たちの視線が感じられました。
(私は今日が初めてなんだよ、君たちはもうスイスイ滑れるかもしれないけどさ!!)
そのうちハの字で下降できるところまでになりましたが、
まあ、全身に力が入っているものだから、疲れ方がハンパないわけです。
(翌日、この世のものとは思えない筋肉痛が来たことはよく覚えている)
でも、根気強く教えてくださった先輩夫婦には本当に感謝しています。
・・・
・・・
・・・というわけで、私はこの1度だけでスキー人生が終わりました。
多分、この先も行くことはないでしょう。
スポーツ全般大好きでむしろ得意だった私ですが、スキーとはご縁がありませんでした。
しかし!
冒頭に書いた「湾岸スキーヤー」の曲をバックに、
私はFM群馬時代は「スノーインフォメーション」というスキー場情報を伝えていました。
「天候晴れ」「積雪200センチ」「全面滑走可能です」
我ながら格好よく伝えていきました(笑)。
しかし、ある日、私は何も疑わず渡された情報を読んでいたら、
当時の上司に諭されました。
「河西さん、雨でパウダースノーはあり得ないよ」って。
どうやらアルバイトの子が間違えて記載したようなのですが、
スキーに疎い私はそれに気づかずそのまま読んでしまったのです。
・・・ホント、すみません(苦笑)。
とまあ、気づけばスキーの思い出を長々と書いてしまいました。
※昨日、FM世田谷のNディレクターが
番組のエンディングに、再度「湾岸スキーヤー」を流してくれて
「はい」と1枚の用紙を渡すではありませんか。
それは、世田谷と繋がりのある群馬・川場の情報!
え?FM群馬時代の再現をしろと?(興奮)
「川場スキー場、天候晴れ、全面滑走可能」
久しぶりに気持ちよくお伝えできました♪
「河西さんは全面滑走不可能だけどね」とスタッフに笑われるオチ付きでしたけどね。
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去年のクリスマスに話した昔のクリスマスのこと
http://mikikasai.exblog.jp/25086366/
2016-12-23T21:27:01+09:00
2016-12-23T21:27:01+09:00
2016-12-23T21:27:01+09:00
mikikasai819
でんき(昔の出来事)
その中で、
「クリスマスはどうやって過ごす?」
「どうせクリぼっち」
このような会話がたくさん出てきて
高校時代の自分はどうだったかなーと思い返していたら、
去年ブログにアップしたエピソードをまた思い出してしまった・・・(苦笑)。
「あの話、ウケたわー」と複数から言われたので
読んでいない方、下のタイトルをクリック!
「あの年のクリスマス、私より大切だったのは・・・」
※クリスマスイブ&クリスマス当日、夫婦そろってまとまった時間ができたので
列車に乗ってふらーっと旅に出てまいります!
クリスマスらしさは3割あるかないかっていう、内容もまだこれから決めるという、
まあ、気ままな感じで。]]>
リポーターが名乗る必要性
http://mikikasai.exblog.jp/24549455/
2016-07-24T16:28:00+09:00
2016-07-24T16:57:46+09:00
2016-07-24T16:28:25+09:00
mikikasai819
でんき(昔の出来事)
今朝のAM7:24の新幹線で東京に戻り、午前中は大手町で司会でした。
昼過ぎに終わってご飯を食べて、かなり久しぶりにインターネットカフェに来ています。
本来、PCはこうでなくちゃ。
サクサク気持ちよく動くことがうれしくて、
ついついキーボードを打つ手も速まります(笑)。
さて、今日は自分の昔の体験を踏まえて、ちょっと気になったことを書きますね。
・・・私はFM群馬時代、リポーターとして県内各地に赴きました。
生放送中に中継を入れる、それはまさにLIVEの醍醐味です。
インタビューしたり、体当たりで何かを体験したり。
ラジオですからイメージを膨らませるための実況、さらには音をとることも忘れずに。
もちろん、新人のころは今思えばひどいリポートでした。
元気がとりえ!というような、勢いだけでがんばっていたときもあります(苦笑)。
でも、日々学べる場でもありました。
そんな中、ある日、先輩アナウンサーに指摘を受けました。
まったくもってそのとおりだ!と腑に落ちる内容で、
以来、忠実に守って来たことがあります。
それは、
相手から呼びかけられたときはわざわざ改めて名乗らないということ。
スタジオにいるアナウンサー
「今日のリポーターは河西美紀アナウンサーです。河西さーん!」
私
「はいっ、河西です!」
何もおかしいところはないように思いますね。
私もそうでした。
むしろ、こういう始まり方こそTHEリポート、THE中継♪だと思っていました。
先輩からはこう言われました。
「河西さんのことはこちら(スタジオ)で紹介してさらに呼びかけているんだから、
名前はもうリスナーには伝わっているよね。
決まり事のように連呼する必要はないんじゃないかな。むしろしつこく感じると思う。」
確かに!!!目からうろこ。
・・・いや、当時の私はそのとおりと100%思えないところもあったかもしれません。
名前を覚えて欲しくて、自分をアピールしたい気持ちもゼロではなくて。
個人的には大いに若気の至りですが(照)
若くなくても自分大好きな人がこの仕事に就きやすいので(爆)
こういう気持ちは分からなくもないですよ!
でも、今のわたしは「私が、私が!」という人間では決してないですし、
性格云々を置いておいて、先輩の指摘はごもっともだなと心から思えます。
注:スタジオから呼びかけがない場合は別です。
いったい誰がしゃべっているのかわからないのは逆に不親切ですからね。
その場合はちゃんと名乗ります。
・・・
・・・
・・・長々と書きましたが、そんなことを思い出すきっかけは、
実は今朝、名古屋のホテルでテレビを観ていたときでした、
たまたまつけたチャンネルの某番組で、
東京のキーステーションから各地方局に呼びかけて中継をつないでいたのです。
「○○テレビの●●さーん」
すると、画面が切り替わり、リポーター(その局のアナウンサー)が出てきて、
「はい!○○テレビの●●です!」
ちなみにテレビですから、「○○テレビ ●●●●」って
ご丁寧に字幕テロップもついているわけで・・・。
・・・はい、分かっています。
そんな細かいことを視聴者は気にしていないよって(笑)。
自分の県内でのリポートと滅多にない全国中継とでは
その意味合いや大きさ、認知度が異なるのも十分理解しています。
そもそも、先輩からのアドバイスが絶対の正解でもないので、
同業者の中にも何の問題もないではないかという人もいらっしゃるでしょう。
あくまで私自身が昔を思い出した話ということでご容赦くださいね。
ただ、自分を名乗るところから始めるというようなことは
時にイメージ先行・自己満足になってはいないか、
顧みる(省みる)いいきっかけになるのではないかと思い記しました。]]>
家庭教師をしていた頃
http://mikikasai.exblog.jp/24446842/
2016-06-09T23:55:00+09:00
2016-06-10T00:21:15+09:00
2016-06-10T00:21:15+09:00
mikikasai819
でんき(昔の出来事)
11月に行われる披露宴の司会をお願いされた旨をブログに書きました。
すると、「家庭教師?」「いつ?」「何を教えていたの?」という質問が
多方面から寄せられました。(私の実の妹からも。笑)
確かに。
学生時代も家庭教師や塾講師のアルバイトをしていましたが、
今回司会を依頼してくれた教え子は、
私がアナウンサーになってからの生徒です。
でも、別に話し方を教えていたわけではありません。
英語や数学や国語、時に社会も理科も教えていました。
・・・もうだいぶ前になってしまいましたが、
FM群馬を辞めたのが2002年の年末。
当時なかった単語で言えば、「パワハラ」的なストレスから体を壊してしまい、
精神的にも鬱々として決して前向きな退社とは言えませんでした。
お仕事は大好きだったし、群馬も大好きだったし、本当に残念だったけど、
リセットしてまた頑張りたいと思った26歳の私。
しかし、一度失った自信を取り戻すのは本当に大変で、
2003年の年明け、オーディションを受けようにもその書類を記入しながら
「こんな私じゃダメだ」と涙が出てしまうような、
まあ、今では本当に考えられないほどしんどい時期だったのです。
でも、いつまでも何も仕事をしないわけにもいかない。
今の自分ができること・・・得意なことは話す以外にないだろうか・・・
そんな時に思いついたのが、家庭教師の仕事でした。
大学を卒業して4年もたって、勉強らしい勉強もしていないのに、
どうやって学生を教えられるのかしら・・・と思いながらも、
元々アナウンサーじゃなかったら先生になりたかったくらい、
分かりやすく楽しく教えるという分野は自分の核となるところがありました。
新宿の某家庭教師センターに登録に行き、簡単なテストがあり、
マッチする生徒さんが見つかったら連絡をもらえるということだったのですが、
その日のうちに、「是非お願いしたい生徒さんがいます」と言われました。
それこそが、今回披露宴の司会をお願いしてくれた子です。運命ですね。
当時彼女は中学2年生。私の住まいの隣の市ということと、もう一つ、
確か、親御様からの条件が「現役大学生ではないこと」だったのです。
逆に「子供に近い年齢の大学生希望」という希望も多い中で、
社会人の人を希望しているという・・・まさにそれはぴったりでした。
しかも、私、一応、教育学部出身ということで・・・(笑)。
その後、6月になるともう1人、中学3年生の女の子も見ることになり、
(やはり家の近くで社会人の先生希望だった)
私は2人の家庭教師として2003年を過ごすことになりました。
当時、何もかもに自信を失っていた私は、必要とされていることに喜びを感じ、
独自のプリントを作ったり、中学校の教材を懸命に復習したり、
もちろん勉強以外のところでのコミュニケーションも積極的にとるようにしたり、
自分なりに2人のために一生懸命でした。
勉強の後にお母様が持ってきてくれるケーキやフルーツを頂きながら
お茶する時間も本当に楽しかったです。
(いろいろエピソードはあるけれど長くなるので割愛して・・・)
結果、2人ともに第一志望の高校に合格することに!!
「先生のおかげです」って言ってくれたけれど、私は今でも思っています。
この2人のおかげで、私も元気になれたのだ・・・と。
そうして、2人ともに、それぞれ社会人になった今でも連絡をくれて、
時々近況報告のランチや飲みをするようになっているのです。
幸せなことです。
・・・で、このたび、そのうちの1人から披露宴司会を依頼されたというわけです。
「河西先生にずっと司会をしてもらうのが夢だったんです」
私が家庭教師として初めてお邪魔した時、
「実はアナウンサーだったんだよ」と言って相当驚かせたことが昨日のようです。
その後、彼女が中学卒業と同じタイミングで私は結婚し、
こうして喋る仕事に本格的に戻ることができました。
出逢った時の私と、今の彼女の年齢はほぼ同じです。
12年という月日に感謝です。
※あ、そうそう、また披露宴が近くなったら記そうと思っていますが、
彼女のお相手は、中学時代からずーっと付き合っている彼氏さんなのです♪
当時から話にずーっと聞いていた男の子が生涯のパートナーになります。
ひとりの人とずーっと!すごいことですよね!!!これも感慨深い理由の一つです。
「とうとう!」「いよいよ!!」「ついに!!!」っていう感じで。
会えるのが今から楽しみなのです。]]>
あの言葉、もう一度教えてほしい
http://mikikasai.exblog.jp/24408190/
2016-05-25T19:04:00+09:00
2016-05-25T19:27:03+09:00
2016-05-25T19:04:39+09:00
mikikasai819
でんき(昔の出来事)
私が担当している「Bee Up!Setagaya」という番組では
毎週メッセージテーマがあります。
先週のテーマが「自転車」でした。
リスナーさんからもお便りが届きましたし、
私自身も自転車のエピソードを話しました。
自転車に乗っていて大けがをした話などは、
ええ、もう、なんだか自虐的だけど美味しいネタだったりして(苦笑)。
でも、真面目な話、自転車といって思い出したことの1つに、
私が高校生の時に使っていた「駐輪場」があります。
当時使っていた駅・・・からちょっと離れたところにある駐輪場。
そこは屋根もなく、管理人も不在で、無料で止められるスペースでした。
結構広くて、でも、手前はなかなか空いていなくて、
入口よりずっと奥の方に停めたときのことだったと思います。
駐輪場のフェンスに括りつけられた、細長い手作りの板。
見逃してしまうような場所に、消えかかった薄い文字を見つけました。
誰が取り付けたのかもわかりません。
今となっては紙だったか木だったか、素材すら思い出せません。
でも、確かにそこに、私の心をつかんで離さない言葉がありました。
ちょっとした言葉が人の心を傷つける
ちょっとした言葉が人の心をあたためる
この2行、違うのは「傷つける」と「あたためる」のところだけ。
でも、それはあまりにも大きな相違で、かつ、表裏一体で。
何気なく発した言葉で結果は変わってしまう。
当時私にとっては、そのまさに「ちょっとした言葉」に
目が釘付けになってしまったのです。
どうしてこんな駐輪場の隅にこんな板が?とも思いました。
自転車に関する標語ならまだしも、ここにある意味という点では、
なんというか、直接的なことではないからです。
でも、真面目な話、ああ、これはきっと自分の人生において
大きな意味を持つ言葉になるなと思いました。
実際、学生時代、いろいろありました。
本人は何とも思っていないであろう一言に傷つき立ち直れなかったし、
相手を心から称賛したはずが誤解され恨まれてしまったこともありました。
逆に、友達のちょっとした言葉に救われて涙腺決壊したこともあれば、
「合格発表の時に美紀が言ってくれた『おめでとう!!』って言葉が一番嬉しかった。
自分のことのようにこんなに喜んでくれるなんて」と友達に感激されたこともありました。
(この話、今も覚えているということは私も相当感激したのだと思います。)
看板との出会いから20年以上が経過し、
駐輪場を使うことは全くなくなりました。(そもそももう存在しないかも)
果たしてあの看板は幻だったのかもしれないとすら思うようになっても、
あの日駐輪場で立ち止まってしまうほどの威力があった深い言葉を
時々思い出しては、言葉を紡ぐお仕事をしています。
・・・
・・・
・・・で、この話をラジオで先週金曜日にしたわけですが、
どうやら私のスカッシュのコーチが番組を聴いてくださっていたようで、
今日のレッスンがひととおり終わった後に
「あのー、この前の駐輪場でのエピソード、もう一度あの言葉を教えてもらえますか?」と。
「え?えええ?ここで、ですか??(スタジオを1歩出るとちょっと恥ずかしい。笑)」
「PCで番組聴いていたんですけど、途中で音声が途切れちゃって、
あー、いいところなのにー!って思って。」
※インターネットでラジオを聴くとバッファ処理の時間が発生するため
音が遅くなったりブツブツ途切れたりすることもあります。
そうして、改めてスカッシュコートの入口で上記の言葉を伝えました。
コーチは「ああ、そうか、最後は【あたためる】だったんですね。
よかったです、いい言葉に出逢えて。」とおっしゃっていました。
そもそもは私の言葉ではないけれど(苦笑)、
こうやって伝わっていくのも、なんだか嬉しいことですね。
※写真はフリーのイメージ素材です。]]>
4月6日はあの子の誕生日
http://mikikasai.exblog.jp/24281964/
2016-04-06T19:56:40+09:00
2016-04-06T19:55:43+09:00
2016-04-06T19:55:43+09:00
mikikasai819
でんき(昔の出来事)
小学校3年生だった私は、ある同級生の家にいました。
その日は始業式。
私が通っていた小学校は2クラスしかなく1クラスが30人弱でした。
というわけで、ほぼみんな顔見知りだったのですが、
それでも仲良くなるのはやはり同じクラスになるからこそです。
1~2年生はクラス替えがなかったため、
3年生は初めてのクラス替え。初めて一緒になる子もいました。
その中にTちゃんがいました。
Tちゃんは周囲の子から比べればたいそう大人でした。
何せ、芸能人のあれこれや原宿の竹下通りについて
小学校低学年でとても詳しかったのです。
(今みたいにPCや携帯で情報がすぐ手に入る時代ではありませんよ!)
クラスでも背が高く、発育も早い子でした。
そんなTちゃんから声をかけられました。
「ねえ、今日私の誕生日なんだけど、
放課後、うちに来ない?誕生会やるから」
始業式当日です。まだ話したことない段階で、です。
「え?う、うん。いいよ」
一旦家に帰って母親には了解を得てから行ったと思いますが
それにしても驚きの展開です。
でも、今思えば、新学期初日が誕生日だなんて、
これくらいの強引さがないと誰も集まってくれませんし、
小学3年生で塾通いが盛んではなかった時代、
別にほかに何か用事があるわけでもないので
問題ないのですけどね。
(まあ、他の日に開催してもよかったとも言えるけれど)
Tちゃんの家に行くとお母さんが出迎えてくれました。
「あらー、よろしくね。うちの子と仲良くしてね」
すごい、ちゃんと準備できている。
ひとしきりお菓子を食べたりして過ごして、
夕方、そろそろ帰る時間というときに事件が起こりました。
Tちゃんがこんなことを言ったのです。
「ねぇねぇ、一人1曲ずつ歌ってー」
え?
すると、Tちゃんのお母さんもノリノリで、
「何でもいいのよ。チェッカーズとか」というではありませんか。
え?えええ?
やっぱり当時のTちゃんはいわゆる「おませさん」でした。
歌番組なども全部見ていて、芸能通でした。
チェッカーズ、もちろん人気があるのはなんとなく知ってはいましたよ。
でも、歌を知っているかというと、残念ながら、
「なーみだーのー りくえーすと♪」の1フレーズだけ(笑)。
当時、トップテンやベストテンを観る習慣がなければ
知る方法はありませんでした。
どうしよう。
なんだろう、このノリは。
「何か歌ったら帰っていいよ」
えええ???
(すみません、この辺はさすがにちょっと記憶が無理矢理ですが、
子ども心に覚えているのは、歌わないと帰れないっていう強迫概念でした。苦笑)
「ごめん、歌、わからない」
当時の純粋無垢な(!?)かさいみきちゃん8歳は
9歳になりたてほやほやのTちゃんが、もはや別世界の人に見えました。
その時、Tちゃんのお母さんが
「河西さんってピアノ上手なんでしょう?
エリーゼのために、私好きなの。弾いてくれる?」
どうやらチェッカーズをあきらめたのか(汗)、
代替案としてピアノ演奏をお願いしてきました。
人前で発表会以外で弾く、しかも、いきなり・・・というのは
ハードルがたいそう高かったのですが、
何か披露しないと帰れないと恐れおののいていた私は、
Tちゃんの家のエレクトーン(いや、ピアノだったかも)の前に座り
譜面なしで「エリーゼのために」を演奏しました。
(ちょうど教室で習っていたので)
今思うと、どういう誕生会だったのでしょう(爆)。
あっ、これは決していじめではないですよ。
そういう認識ではなく、ノリがよかったTちゃん母娘に
今日仲良くなった初対面の状況ではなかなかついていけなかったという
8歳の幼い頭が混乱した日のエピソードです(笑)。
まあ、そんなわけで、4月6日が来ると、30年経った今も、
このTちゃんの家での出来事を思い出します。
多分Tちゃんは覚えていないでしょう。
(大人になってから全く会っておらず連絡先も知らないので
確認のしようがないのですが)
新学期スタート。
小学生の皆さん、友達に無茶ぶりはせず(笑)、
仲良く楽しく過ごしてね。]]>
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