2017年 09月 11日
伯父との別れは驚きの連続(山梨の葬儀文化)
※これから書くことは告別式の詳細なので、
重い描写はちょっと・・・という方はスルーしてください。
先週、伯父が亡くなりました。81歳でした。
父の兄なのでだいぶ年齢が上なのですが、
だからと言ってまだまだ元気でいると疑わなかったのが本音です。
父は5人兄弟の4番目。伯父は上から2番目。
父だけが10代から東京に出ており、みんな山梨に住んでいます。
(現在の南アルプス市)
子供のころはよくお正月とお盆に遊びに行ったものですが、
大人になればなかなか会うこともなくなります。
ただ、どういう前触れか、久しぶりに親戚に会いたくなって
私は自分で車を運転し助手席に父を乗せ、
先々月(7月)に山梨に行きました。
「美紀ー、久しぶり!よく来たね」と、ほぼ10年ぶりの再会。
懐かしく迎えてもらったその中で、一人だけ、伯父が体調を崩していました。
「最近調子が悪くて、点滴をしに病院に行ってきた」と。
お酒が大好きで豪快だった伯父の姿しか知らないので、心配でした。
その伯父が、どんどん弱っていき、食事を自力でとれなくなり入院。
余命1ヶ月と診断されました。
「俺の命は9月21日までだそうだ」と本人から父に電話がかかってきたそうで
そんな具体的な日にちを医者が言うわけもないので
多分1ヶ月というのをそのまま当てはめたのでしょう。
いずれにしても驚きを隠せません。
伯父の病気は膵臓がんでした。
分かったときにはすでに肝臓にも転移をしていたようです。
ここまでなるまでになんとかならなかったのかと思う気持ちもありながら
1ヶ月しかないというなら絶対に会っておいた方がいいと、
8月30日、私が仕事がない日を狙って実家に行き、
父は今度は母と一緒に山梨へ日帰りで向かいました。
私は祖母(95歳)の介助をしながら留守番を託されていました。
滞在時間は数時間。
弱ってはいたけれど会えてよかったと母が言っていたのが印象的でした。
息を引き取ったのはそのわずか5日後、9月4日でした。
余命1ヶ月と言われたのに、半月ももたなかった。
驚きを通り越して絶句でした。伯父はどんな思いだったのでしょう。
さて、ここからが山梨の葬儀についてです。
祖母を一晩ひとりぼっちにするわけにはいかないので、
通夜は父と母だけが山梨に向かい私は実家、
告別式には行きたいので翌日車で私と妹が行くことにしました。
ところが、山梨は、告別式の前に火葬をしてしまうのが風習なのです。
(前火葬というらしい)
つまり、告別式の時にはすでにお骨になってしまっている・・・
最後に伯父の顔を見たいという思いは告別式出席では叶わないということです。
東京では考えられません。
私は先々月会っていますが、妹はそれこそ10年近く会っていなかったので
何とかしてひと目だけでもと思っていました。
しかし、そのためには前の晩から行くか、火葬に間に合うようにいくか。
告別式は正午から。その前ということは、朝早くからなのです。
伯父の火葬も7時40分集合でした。
山梨までは車で2時間は見た方がいいので、5時半には出たい。
私1人ならいいけれど、祖母をギリギリまで看る必要がある。
妹も1歳8か月の姪を連れて行くので夜遅くや朝早くには動きにくい。
やはり、現実的には厳しいと判断。祖母に朝ご飯を食べさせてから、
私の運転で妹と姪を乗せて向かうことにしました。
会場に着くと懐かしい従姉たちの顔。
冠婚葬祭でしか会えない寂しさと久しぶりに会えた嬉しさと、
なかなかに複雑な心境ではあります。
告別式では祭壇に遠い方から喪主と言われました。
え?奥が近親者ではないの?普通は逆では?と思いましたが、
祭壇から遠いところに焼香の台が設置されており
そこに最も近い場所で、来てくれた人に挨拶するためのようです。
また、身内は回し焼香でした。
座ったまま焼香炉(お焼香をする箱)を順番に隣の人に渡していく形です。
このとき、姪は声を発してしまうので別室に控えていましたが、
スタッフの方がちゃんとそこにも持って行ってくれて良かったです。
既にお骨になってしまっているため、このあとの涙のお別れというのもなく、
今回住職の方がお経を唱えている間、私は、ああ、今本当に、この言葉とともに、
伯父はあの世に向かっているのかな・・・などと、より一層感じていました。
(すみません、特に私は無宗教です)
最後の最後に、セレモニーホールの司会の方が、
「皆様、祭壇の故人のお写真の方をお向きになってください」と言うと、
生前の伯父について語り始めました。
私は身内の葬儀にこれまで1度しか出たことがないので
これは地域特有なのかホール特有なのかどうかも分かりませんが、
この語りが、もう、涙なしでは聞けませんでした。
それはそれはお見事だったのです。
遺影を見ながら、在りし日の伯父の様子が目に浮かび、
ああ、そうだったそうだったと、微笑み、泣き、
身内は一気に心が一つになり、私もここでは涙が止まりませんでした。
後で聞くと、事前に伯父の性格などを箇条書きにして渡し、
それを司会の方が文章にしたそうです。
私は気になったのはこんな時でも職業病かも知れませんが
バックに流れていたアンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」、
生演奏とともに忘れられないシーンとなりました。
そのあと初七日法要がすぐに行われ、身内だけでなく
地域の班(組?)の方々も一緒に献杯、食事。
私は久しぶりに従姉と会話をしました。あっという間の時間でした。
そういえば、伯父の戒名の最初の部分に「千畳院」とつけられていました。
伯父は畳職人だったのです。祖父から受け継いで80歳までやり遂げました。
ああ、いい名前がついたなぁと思いました。
帰りは私が運転し、父・母・妹・姪を乗せて東京まで戻ってくる、
そんな一日でした。
車の後ろのトランクには、祭壇にあったたくさんの仏花(菊など)。
結婚式でもあるまいし・・と違和感があったのですが、それもそのはず。
告別式の後で火葬の場合は、そのお花も棺の中に入れるのが一般的。
山梨は前火葬なわけで、必然的にお花は告別式まで取っておく必要がある・・・
そして最後に持ち帰る。
やはり風習の違いをここでも知りました。
・・・身内の話を長々とすみません。
でも、こういうことはあとから読み返すためにも
記録しておいた方がいいなというのを実感しています。
また次は違う話題を記しますね!
重い描写はちょっと・・・という方はスルーしてください。
先週、伯父が亡くなりました。81歳でした。
父の兄なのでだいぶ年齢が上なのですが、
だからと言ってまだまだ元気でいると疑わなかったのが本音です。
父は5人兄弟の4番目。伯父は上から2番目。
父だけが10代から東京に出ており、みんな山梨に住んでいます。
(現在の南アルプス市)
子供のころはよくお正月とお盆に遊びに行ったものですが、
大人になればなかなか会うこともなくなります。
ただ、どういう前触れか、久しぶりに親戚に会いたくなって
私は自分で車を運転し助手席に父を乗せ、
先々月(7月)に山梨に行きました。
「美紀ー、久しぶり!よく来たね」と、ほぼ10年ぶりの再会。
懐かしく迎えてもらったその中で、一人だけ、伯父が体調を崩していました。
「最近調子が悪くて、点滴をしに病院に行ってきた」と。
お酒が大好きで豪快だった伯父の姿しか知らないので、心配でした。
その伯父が、どんどん弱っていき、食事を自力でとれなくなり入院。
余命1ヶ月と診断されました。
「俺の命は9月21日までだそうだ」と本人から父に電話がかかってきたそうで
そんな具体的な日にちを医者が言うわけもないので
多分1ヶ月というのをそのまま当てはめたのでしょう。
いずれにしても驚きを隠せません。
伯父の病気は膵臓がんでした。
分かったときにはすでに肝臓にも転移をしていたようです。
ここまでなるまでになんとかならなかったのかと思う気持ちもありながら
1ヶ月しかないというなら絶対に会っておいた方がいいと、
8月30日、私が仕事がない日を狙って実家に行き、
父は今度は母と一緒に山梨へ日帰りで向かいました。
私は祖母(95歳)の介助をしながら留守番を託されていました。
滞在時間は数時間。
弱ってはいたけれど会えてよかったと母が言っていたのが印象的でした。
息を引き取ったのはそのわずか5日後、9月4日でした。
余命1ヶ月と言われたのに、半月ももたなかった。
驚きを通り越して絶句でした。伯父はどんな思いだったのでしょう。
さて、ここからが山梨の葬儀についてです。
祖母を一晩ひとりぼっちにするわけにはいかないので、
通夜は父と母だけが山梨に向かい私は実家、
告別式には行きたいので翌日車で私と妹が行くことにしました。
ところが、山梨は、告別式の前に火葬をしてしまうのが風習なのです。
(前火葬というらしい)
つまり、告別式の時にはすでにお骨になってしまっている・・・
最後に伯父の顔を見たいという思いは告別式出席では叶わないということです。
東京では考えられません。
私は先々月会っていますが、妹はそれこそ10年近く会っていなかったので
何とかしてひと目だけでもと思っていました。
しかし、そのためには前の晩から行くか、火葬に間に合うようにいくか。
告別式は正午から。その前ということは、朝早くからなのです。
伯父の火葬も7時40分集合でした。
山梨までは車で2時間は見た方がいいので、5時半には出たい。
私1人ならいいけれど、祖母をギリギリまで看る必要がある。
妹も1歳8か月の姪を連れて行くので夜遅くや朝早くには動きにくい。
やはり、現実的には厳しいと判断。祖母に朝ご飯を食べさせてから、
私の運転で妹と姪を乗せて向かうことにしました。
会場に着くと懐かしい従姉たちの顔。
冠婚葬祭でしか会えない寂しさと久しぶりに会えた嬉しさと、
なかなかに複雑な心境ではあります。
告別式では祭壇に遠い方から喪主と言われました。
え?奥が近親者ではないの?普通は逆では?と思いましたが、
祭壇から遠いところに焼香の台が設置されており
そこに最も近い場所で、来てくれた人に挨拶するためのようです。
また、身内は回し焼香でした。
座ったまま焼香炉(お焼香をする箱)を順番に隣の人に渡していく形です。
このとき、姪は声を発してしまうので別室に控えていましたが、
スタッフの方がちゃんとそこにも持って行ってくれて良かったです。
既にお骨になってしまっているため、このあとの涙のお別れというのもなく、
今回住職の方がお経を唱えている間、私は、ああ、今本当に、この言葉とともに、
伯父はあの世に向かっているのかな・・・などと、より一層感じていました。
(すみません、特に私は無宗教です)
最後の最後に、セレモニーホールの司会の方が、
「皆様、祭壇の故人のお写真の方をお向きになってください」と言うと、
生前の伯父について語り始めました。
私は身内の葬儀にこれまで1度しか出たことがないので
これは地域特有なのかホール特有なのかどうかも分かりませんが、
この語りが、もう、涙なしでは聞けませんでした。
それはそれはお見事だったのです。
遺影を見ながら、在りし日の伯父の様子が目に浮かび、
ああ、そうだったそうだったと、微笑み、泣き、
身内は一気に心が一つになり、私もここでは涙が止まりませんでした。
後で聞くと、事前に伯父の性格などを箇条書きにして渡し、
それを司会の方が文章にしたそうです。
私は気になったのはこんな時でも職業病かも知れませんが
バックに流れていたアンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」、
生演奏とともに忘れられないシーンとなりました。
そのあと初七日法要がすぐに行われ、身内だけでなく
地域の班(組?)の方々も一緒に献杯、食事。
私は久しぶりに従姉と会話をしました。あっという間の時間でした。
そういえば、伯父の戒名の最初の部分に「千畳院」とつけられていました。
伯父は畳職人だったのです。祖父から受け継いで80歳までやり遂げました。
ああ、いい名前がついたなぁと思いました。
帰りは私が運転し、父・母・妹・姪を乗せて東京まで戻ってくる、
そんな一日でした。
車の後ろのトランクには、祭壇にあったたくさんの仏花(菊など)。
結婚式でもあるまいし・・と違和感があったのですが、それもそのはず。
告別式の後で火葬の場合は、そのお花も棺の中に入れるのが一般的。
山梨は前火葬なわけで、必然的にお花は告別式まで取っておく必要がある・・・
そして最後に持ち帰る。
やはり風習の違いをここでも知りました。
・・・身内の話を長々とすみません。
でも、こういうことはあとから読み返すためにも
記録しておいた方がいいなというのを実感しています。
また次は違う話題を記しますね!
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ラテ
at 2017-09-11 18:58
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自分の実家の方も告別式前に火葬しました。
喪主ではなく施主といい、新盆をしんぼんと読みます。
喪主ではなく施主といい、新盆をしんぼんと読みます。
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かずにょぃ
at 2017-09-11 21:54
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ブログの中に書いてあったアンドレ・ギャニオンのめぐり逢い聴いてみました。
とてもいい音楽でジーンときてしまいました。
いつか自分も歳をとり、天国に行く時はこの曲が流れ、見守られながら天国に逝きたいと思わせる曲だと思いました。
とてもいい音楽でジーンときてしまいました。
いつか自分も歳をとり、天国に行く時はこの曲が流れ、見守られながら天国に逝きたいと思わせる曲だと思いました。
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mikikasai819 at 2017-09-13 15:16
ラテさん、やはり地域によるのですね。
あまり経験がない方がいいことではありますがいざという時に知識がなさすぎるのも困ってしまうなぁと今回実感しました。
あまり経験がない方がいいことではありますがいざという時に知識がなさすぎるのも困ってしまうなぁと今回実感しました。
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mikikasai819 at 2017-09-13 15:18
かずにょぃさん、めぐり逢い、心を掴まれますよね。
今回もしばらく頭の中をぐるぐる廻っていました。
今回もしばらく頭の中をぐるぐる廻っていました。
by mikikasai819
| 2017-09-11 10:25
| にっき(日々の出来事)
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Comments(4)