ブログトップ | ログイン

このき なんのき かさいみき

ある友との別れ

お盆休み、いかがお過ごしでしょうか。

今日は、ちょうど3ヶ月前にこの世を去った大切な友達のことを書きます。

あまりにつらすぎて泣いてばかりのときもあったし、
自分の気持ちがなかなか整理できなかったし、
言葉にできない気持ちもありました。
だから、今、このタイミングなのだと思います。

重い描写が苦手な方はスルーしてください。
しかも長文です。

また、できるだけ忠実に書いていきたいと思いますので、
該当する時代の方々、お願いですからどうか興味本位で「誰?」と詮索せず、
そっとしておいてください。


★★★

私には性別を完全に超えた友達がいました。
中学時代の同級生、S(仮)です。
学級委員で真面目そう、でも実際は超ムードメーカーな当時の私と
細くておとなしそう、でも実際はよく喋る当時のSは
見た目と本性のギャップがお互い激しいと誰もが認めており、
とにかく学校でよくつるんでいました。
いや、正確に言えば、私が喋って、
それをSが笑いながら突っ込みを入れていた(あしらっていた)といえるでしょう。
私がハイテンションで喋って、「ハイハイ」と受け流される・・・
いつしかSから私は「ハイ」と呼ばれることすらありました。
まったくひどい話です(笑)。
でも、おかげさまで淡い恋心などが生まれるはずもなく、
たわいのない話をよくしたものでした。
ラジオが好きで、私の好きだった(今も好きですが)永井真理子も好きで、
そういうところは意気投合していました。
進路が決まった時、「お前が女子高?」と驚かれ、非常に心配されました。


高校に入ってもSとの縁は続きました。
お互いの学校生活の話をし、お互いの文化祭に足を運び、
お互いの友達を紹介しあって遊び、お互いの家にも遊びに行きました。
当時は携帯電話もメールもありませんでしたが、
家の電話を使っていたんですよね。
「はーい、ちょっと待ってね」とお母さんが必ず出て、
「河西さんからよ」と受話器の向こうでのやり取りが聞こえ、
「うい」と言って必ず出てくるのは毎度のこと。

真面目な話はまったくしない。
それが私たちの友情関係でした。
そして、まったく恋愛モードになる関係でもなかったため、本当に気がラクでした。


ただ、1つだけ、思い出したエピソードがあります。
高校卒業の頃、もうすぐ10代最後の年齢だなーって流れから、
「19歳でシルバーの指輪をもらった女子は幸せになれる」という話になりました。
(当時流行っていた伝説みたいなもの)
その時Sから偉そうに言われたのです。
「あー、それは大変だ。もしその時独り身だったら、
あまりにかわいそうだからプレゼントしてやってもいいぞ」と。
でも、Sから貰うなんて本当に当時ちっとも望んでいなかったので(笑)
「大丈夫。ちゃんと彼氏作るから。出番ないから安心して!」と言いました。
「あー、ハイハイ。まあ、せいぜい頑張りなさい」
「ちょっとー、ハイハイって言わないで!」「ハイハイ」

その後、私は大学に入りキャンパスライフを謳歌し、
Sは2浪したこともあり、だんだん疎遠になりました。
でも、お互い就職すると、昔ほど頻繁ではないものの、
時々は連絡をするようになりました。

互いの誕生日には必ずメールをしたり、
我が家に遊びにも来たり、
うちの主人とも親しく飲みに行ったり。
「お前よりダンナさんと喋りたい」まで言われるし(笑)。

結婚した後もSの実家には遊びに行き、ご家族とも親しくお話して、
こういう関係は本当にありがたいなぁと思っていました。



2011年。Sは病気になりました。
仕事を辞めてしばらく家にいるという話を聞いたので
転職でもするのかと思ったら、

「俺、乳がんになったんだわ」

耳を疑いました。

非常に低い確率で男性でも発症するそうです。
胸ポケットに物を入れると痛いという違和感から始まり、
乳輪が変色していったようですがまさかそれが乳がんとは思わず、
いよいよ検査に行ったときにはすぐ手術だったそうです。

「全部取ったからもう大丈夫なんだけどさー、切ったから腕が上がらなくて。
あ、でも、胃腸や肝臓は問題ないから、好きなお酒は飲めるんだ」

あまりに淡々と、しかもちょっと茶目っ気すら出しながら言うものだから、
私も心配な気持ちはしまって、明るく努めました。

「しばらくは家で療養だから、いつでも遊びに来いや」
「うん。私のトーク、癒し効果あると思うよ♪」「あー、ハイハイ」


その後、しばらくはSも調子よくて、
電車に乗って飲みに行ったり、一緒に野球観に行ったりするほどでした。
ご自宅にお邪魔してご両親も一緒に食事して
「河西さんゆっくりしていってねー」といつも歓迎してくれました。
Sも「おかん、こいつには気を遣わなくていいから」とご満悦。
よかったー。大丈夫だ。

今から思えばそういう日は稀で、
大丈夫じゃない日も本当に多かったのでしょう。
でも、Sからのメールはいつも明るくて、病気をまったく感じさせなくて、
弱音もまったく吐かないし、つらい病状も軽い口調で書くし、
そう、中学時代のふざけあっていた頃と何も変わらない空気が
そこにあったのです。


今年4月。
1年ほどご無沙汰していたのですが、恒例の誕生日メールを送りました。

「最近、どう?またゆっくり会おう!」
すると返信が。
「気軽に出かけられないのが一番ツラいかなー。
でも、家に来てくれるのは全然構わんよ。
元気なときはパソコンいじってるかゲームで遊んだりしてるよー」
これはしばらく会ってないし、行ってみることにしました。
「私の『ハイ』が果たして病気に効果的かわからないけど、
喋り相手はできるよ。
無理はしてほしくないけど、車椅子押して外出とかも
私ができることならやるからさ。」



・・・伺うと、玄関でSのお母さんが出迎えてくださいました。

「お久しぶりです。Sくん、どうですか?」

するとお母様は、微笑しながら、黙って首を横に振りました。

えっ、どういうこと?

「この部屋にいるから、ゆっくりしていってね」
和室の扉を開けて、私はあまりのショックに息を飲みました。

介護ベッドの存在感、そこに、ちょこんと座っている後ろ姿。
痩せ細った体、髪の毛も眉毛も抜けていて、
白い帽子をかぶっているS。
最後に会った1年前の状態のままだと思って気軽に来てしまったけれど、
それはもう、どうみても、末期の状態でした。

Sは私の顔を見て、ニヤリと、いつものように、
でも、病気のためか弱弱しく、笑いました。

「おぅ、久しぶり」
「ホント。1年ぶりくらいかな。」
「あ、その辺に座りな」
「うん、ありがとう」

心臓がドクドク早くなります。何、これ。どうしてこんな?
私はどう接したらいいのだろう。
普通どおりでいいんだよね。でも、何を話していいのかわからない。
今の私はどういう表情をしているのだろう。

「プロ野球、今年はどうなるかねー」
「大谷、二刀流定着してきたからなぁ」
昔からSは日本ハムの大ファンなのでそんな話を振ってみたり。

「姪っ子さん、大きくなったでしょう」
「俺がゲーム教えてやったらだいぶうまくなった」
独身のSにとって姪っ子が可愛くて仕方ないといつもデレデレしていたっけ。

「クッキー、買ってきたよ。地元にもこんなお店があるんだね」
「え、どこ?」
「○○駅のすぐそば」
「へぇ、初めて知った。わざわざありがとな」
果たして、この体調で食べられるのかもよくわからないけれど・・・。

すると、Sがいきなり「そういえば、アルバム用意しといたぞ」と言ってきました。
実は、中学の卒業アルバムは、諸事情により
ある人に貸したきりもう15年以上返ってこなくて、
次に遊びに行ったら見せてと頼んでいたのでした。

「よく覚えてたね」
「お前と違うからな。まあ、自分では重くて取り出せないから
おかんに頼んで部屋から持ってきてもらったよ」

見覚えのある卒業アルバム。懐かしい。
でも、これを今、Sと一緒にしみじみ見るの?心がザワザワしました。
人生を振り返る的なことを、今、ここでするなんて、ちょっと、気が乗らない・・・
でも、変に気を遣うのもおかしいし、いいのか、普通に見れば・・・。

「うわー、○○くんっていたねぇ」「あー、△△先生、怖かったねー」
「部活、頑張ってたよね」「合唱コンクールの曲、覚えてる?」
「ほら、Sが好きだった■■さんが写ってるよ」

今思えば、なんだかもう、ひたすら一人で感想を言っていた気がします。
そうしていないと、どうにかなりそうだったのです。

最後に、SがSNSで日記を書いているというので、
「どうせお前には見せないって言うんでしょう」というと
「いや、いいよ」と素直に応じてくれました。
招待がないと見られない形のものだったので、
私のアドレスに送ってくれるというのです。
小さなノートパソコンですが、Sの腕の筋肉では持てません。
私が支えて、ゆっくりゆっくり送ってくれました。

「ごめん、長居しちゃった。疲れたでしょう」
「そんなことないって。また実家の方に来たとき寄れよ。」
「うん、わかった。お大事にね。またね。」
私はSの肩に、すごくすごく軽く、ポンと触れました。
また・・・があるのかわからないというザワザワした気持ちを抑えながら。


「ごめんなさいね、黙っていて。驚いたでしょう。
実は今年に入ってから急速に悪化してしまって」
お母さんと玄関先で話をしながらも、ずっとザワザワ。

そして、帰り道。私は胸が張り裂けそうというのはこのことかという思いで
全速力で自転車をこぎました。どうにかなりそうでした。

でも、間違いなく言えます。Sは生きようとしていました。
というより、やはり病気の前と何も変わらないように振る舞っていました。
本心は正直分かりません。
お母さんも「病人扱いはしないでほしいんだと思って
どんなにつらくても笑顔を絶やさず一貫して変わらず接している」と
おっしゃっていたほどです。

帰宅後、私はSにすぐにメールを送りました。

「治ったら飲みにいこう。私が飲み相手第1号になりまーす!」

こういう表現がよかったのか分からないけれど、
やっぱり私も変わらず同じスタンスでいるのがいいなと思ったからです。

しばらくして返信が。

「飲み相手第1号の候補は神田でよく飲んでた人たちに決まってるんで。
キャラの濃い人たちだから、残念ながらお前は一緒に連れて行けないと思う」


おーい、私、Sに振られた形になってますけど。
笑いながら泣き、泣きながら笑いました。

そして最後に書かれていた文章。

「ま、なんだかんだで生きてってるんで、また気が向いたときにでも」

飄々としすぎです。Sは本当にこういう奴なのでした。
気が向いたとき?どうしたらいいの?
今すぐにでも行きたいし、すぐ行きすぎるとおかしいし。
大きく深呼吸して、時間の流れがゆっくりになってくれないだろうかと
ただただ天を仰ぎました。


・・・

・・・

・・・2週間後。Sはこの世を去りました。
葬儀には出席できませんでした。
荼毘に付された後に連絡があったからです。
友達が多いほうではなかったこともあり、家族だけでの密葬のようでした。
でもSのお母さんから「息子が力尽きました」と連絡がありました。
よくメールをくださったと思います。
線香を手向けさせてほしいとお願いして、ご自宅に伺うことにしました。


2週間前と同じ和室。扉を開けると、そこにあったベッドは片付けられ、
遺影と骨壺がありました・・・。
亡くなったあとに届いた(生きているうちに間に合わなかった)新品の車椅子も
そのままおいてありました。
言葉が出ないとはこのことです。嗚咽が止まりませんでした。

気丈だったお母さんも、私の姿を見て体を震わせました。

あまり長居してもいけないだろうとすぐ失礼するつもりでいましたが、
二人で1時間近く話し込みました。
最期の様子も細かく聞きました。
Sは亡くなる前日だけ、たった一度だけ、「もう限界だ」と弱音を吐いたそうです。
逆にそれ以外のときはいつもお母さんを気遣うほどだったというではありませんか。
私だったら絶対にできません。

お母さんは泣きながら、でも、笑いながら話して下さいました。

「河西さんのこと好きだったときもあったかもしれませんね」
「そんな・・・Sに怒られちゃいますよ」
「でも、あの子、言っていました。
『河西はそういうんじゃない!親友なんだ!』って。」


・・・私は泣き崩れました。


真面目な話をした記憶はほとんどない、本当にくだらない話しかしない、
いつも言い合っている、そういう時間が、
かけがえのない友情だったんだね・・・。
好きだと思われるより、親友と思ってもらえていたことが
実は何倍も嬉しかったのです。


最後に、家を出るとき、お母さんから、大きな茶封筒を渡されました。


何が入っていたでしょう・・・。

それは、中学の卒業アルバムでした。



「これ・・・!?」

「河西さん、持っていってもらえますか」

ついこの前、最後に会ったときに一緒に見たアルバム。
Sが私のために用意しておいてくれたものです。
思い出されてまた涙が止まらなくなりました。

さすがに大切なものなので躊躇しましたが、
「うちに置いておくより、河西さんにもらってほしいんです」と言われ、
Sからのプレゼントだと思ってお受けすることにしました。

自分の手元にはもう永遠に戻ってこないと思っていた卒業アルバムが
こんな形で託されるとは思ってもいなかったけれど、
何かの運命を感じずにはいられません。
大事にします・・・。

★★★

Sの命日から3ヶ月。私は生きています。
時々今も思い出して泣きそうになります。

Sにいろいろ聞きたいことがあります。
でも、もう答えは返ってきません。
Sに今なら真面目にありがとうと言えます。
でも、もう直接は伝えられません。

きっと、ずっと、私たちは、誰にも真似のできない、
永遠に茶化しあえる関係でいたほうがいいのだと思います。

そうだよね?

・・・「ハイハイ」と、本当に、聞こえてきそうな気が、します。
by mikikasai819 | 2014-08-11 22:08 | にっき(日々の出来事) | Comments(0)